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僕が修行に行ってきた話 【Episode 2:情報の制約のなかでーコミュニケーション編】

こんにちは、大変な状況が続いておりますがいかがお過ごしですか?前回は修行生活中に僕の頭の中がどう変わったのかについて書かせてもらいました。

今回は情報(情報機器)の制約のなかでのコミュニケーションのあり方と、それによって気づいかせてもらったことについてお伝えしていきたいと思います。どうぞ最後までお付き合いください。

コミュニケーション手段の進歩

さて、今日の僕たちのコミュニケーションの方法は実に多様化しています。うちの寺社にお参りされる80代のおねえさま方もLINEでスタンプを駆使していますし、今回のコロナの一件で地方にもZoomやビデオ通話は普及しつつあります。

僕はビジネスチャットの営業マンをしていた頃にコミュニケーションの変遷について考えることがよくありました(この点についてはご要望があれば、別の機会にまとめたいと思います)。対面でのボディランゲージから始まり、徐々に記号・言葉が生まれていきます。そして、それぞれの原初的なコミュニケーション手段は科学技術の進歩と重なりあい、コミュニケーション2.0、3.0…と進歩的なコミュニケーション手段を生み出しました。

進歩的なコミュニケーション手段の主な特徴を3つ挙げてみましょう。

非接触性:同じ場所に居合わせなくても相互的にコミュニケーションができる。
非同期性:同じ時間を共有しなくても相互的にコミュニケーションができる。
記録性:コミュニケーションの内容を遡って確認することができる。

科学技術の進歩はこれらの特徴をより効率的に実現する方向でコミュニケーションを強化してきたと言うことができるかと思います。

修行中のコミュニケーション手段

以前のnoteの通り、僕は修行生活でスマホのない生活を送っておりました。離れた方と連絡するにもSNSには触れられないですし、公衆電話(10円玉を入れるタイプ!)を使うか手紙を書くかしか方法はありません。また、意外に思われるかも知れませんが共に修行生活を送る同期生とのコミュニケーションについても制約を感じました。しかし、それらの不便さは同時に、それまでの生活におけるコミュニケーション手段の価値を再確認させてくれることにも繋がりました。

一方で、原初的な手段からの学びもありました。それぞれのコミュニケーション手段の隠れた特性によって私たちのコミュニケーション自体が規定されている部分もあると気づかされました。その点についても言及したいと思います。

対外的コミュニケーション:手紙を書く

みなさんは最後に手紙を書いたのはいつでしょうか?僕は同世代の中ではわりと手紙を書く機会に恵まれたほうだと思います。しかし、大半は営業のために相手先の会ったこともない社長に送るというもので、ロマンチシズムの欠片もない代物でした。修行中にはお世話になった方に対して、他に手段もなく手紙を書きました。

「やっぱり手書きは心が伝わってくる」と言われることがあります。本当にそうでしょうか?少なくとも僕は手放しには同意できません。走り書きのメモのような手紙なら活字の方がいい。しかし、この意見、的外れでもないとも思う。私が何が言いたいかって?今から説明しますね。

手書きのニュアンス
「手書きは心が伝わってくる」という正体は、手書きに表れるニュアンスにあります。文字の大小、筆圧、丁寧に書こうとした形跡。手紙を受け取った人は、これらも情報として受け取ります。活字であれば太文字にしたり、フォントサイズを変えたりするべきところが、手書きでは無意識のうちに行なわれています。同じ文字列を並べたとしても、活字と比べて手書きの方が情報量が多いのは当然のことと言えます。

書き直しのコスト、ラリーの時間の長さ
けれども手書きが心を伝えやすくする働きの根本は、手紙の「書き直しのコスト(手間)」と「ラリーの時間の長さ」にあると言えるでしょう。

上述のように、手書きの方が伝わる情報量は多くなります。しかし、その情報がノイズばかりであれば、かえって伝わりにくくなるということもあります。

液晶画面上の文字は打っては消してが簡単にできます。しかし紙は同じようにはいきません。ペンなら一回勝負ですし、鉛筆やシャープペンシルであったとしても消す度に少しずつ書いた跡が残っていきます。一文字一文字を間違えないように書かないといけないという「ルール」が手書きというコミュニケーションの方法には含まれているのです。

また、チャットやメールのように返信のラリーが早いコミュニケーション手段なら、誤解を生む表現があったとしても簡単に確認や補足、訂正をすることができます。しかし、投函から返信が届くまでの時間が長い手紙においてはそうはいきません。しっかりと、相手に伝わるように、文面をチェックしやすい仕組みが手紙にはあるのだと思います。

郵便ポストの祈り
修行先には修行生の郵便物をまとめて預かって投函する係がありました。係になると朝の参拝時に迂回して郵便ポストに向かいます。そして、預かった郵便物を投函した後にポストに向かって手を合わせるのです。相手のもとに無事に届くようにという祈りを込めるのですが、今思えば相手の心に届くようにという祈りも含まれていたのかも知れません。

対外的コミュニケーション:公衆電話

僕は営業マン時代からあまり電話が得意ではありませんでした。お客様からの電話にも出ないでメールで連絡することも(スミマセンでした)。こちらからも急用か特別な事情以外にはあまり電話を使わない、「らしくない」営業マンだったと思います。

以前のnoteで紹介したとおり、修行中はスマホを使うことはできませんでした。電話を掛けるには寮内に備え付けられている公衆電話を使うのみ。公衆電話ー僕が小学生の頃には主要な連絡手段の一つでありながら、今や化石感が強い。もしかしたら20代は使ったことないんじゃないかな。硬貨かテレフォンカードを挿入して使うアレです。

いま掛けていい?
修行中はそもそも寮でゆっくりする時間はほとんどありませんから、公衆電話を使うとしても限られたタイミングだけ。他の人が使いそうにないか等気にしながら使わなければなりません。気にすべきはそれだけではありません。相手は今電話に出ることはできるのか、ということ。

相手に繋がる時間に掛けなければなりませんので自ずと「この時間はどう過ごしているだろうか」「今掛けたら迷惑じゃないだろうか」等と考えるようになります。相手の生活リズムに添ってコミュニケーションができるように配慮しやすい「ルール」があったように思います。

減っていく度数=時間
今では通話料金をあまり気にすることはなくなりました。通話終了時に確認される方もいらっしゃるかも知れませんが、掛け放題のプランやLINEをはじめとする無料通話アプリの普及によって通話へのコスト意識はゼロに近づいているように思います。

一方、公衆電話。挿入した硬貨やテレフォンカードに応じて度数(=残り通話時間)が表示される。その数字はどんどん小さくなっていき、終わりが近づくと「ピピーッ」というアラート音を鳴らす。否が応でも二人に残された時間を意識させられるのです。すると、時間内に用件が伝わるように意識するようになります。単刀直入に用件に入るよう暗黙に矯正させる「ルール」があるのです。

また、事務的な電話ではない場合には、色々な話をして盛り上がることがあります。度数が足りなくなって硬貨を挿れて話の続きをします。些細なことですが、この追加で硬貨を挿れるという動作にも意味があるような気がします。その都度「この人ともう少し話をしたいかどうか」という選択を無意識に行い、その問いの答えとしての動作は自分の思いを確かめるための材料になり得るのではないでしょうか。

対内的コミュニケーション:

以上は修行生以外とのコミュニケーションの話でしたが、ここからは修行生間でのコミュニケーションについて話を進めたいと思います。修行生は寝食を共にしますが、四六時中全員が同じ場所にいる訳ではありません。プライベートな空間や時間はほぼ皆無ですが、一方で全体行動という訳でもないのです。

意思決定について
修行生活におけるルールを決めたり、情報を共有したりすることも必要となります。全員で集まって話し合えればいいのですが、いつもそうとはいきません。意思決定時に居合わせなかった人は疎外感を持ちます。これは会社でも同じこと。すぐに決めないといけない性格の問題であれば仕方ありませんので、話し合いに参加できなかった人に事情を説明してアフターフォローします。しかし、そうではないなら、なるべく全員が意思決定に参加するべきですし、難しいなら事前に意見を聞いておき委任してもらうという方法を取るべきでしょう。

情報共有について
情報共有は上記のような集まって話す方法以外に掲示板に書く、寮内アナウンス(放送機器)を使うという方法がありました。しかし、全員で集まる場合以外には誰に伝わっていて、誰に伝わっていないのかが分かりません。会社員時代にはビジネスチャットで誰が既読を付けたかも分かっていましたので、少し逆行した環境に身を置くことが新鮮でもありました。

「掲示板や寮内アナウンスした=全員に伝わった」と脳内変換される方もあります。そうすると伝わった体(てい)で物事が進んでいきます。アナウンス時に寮内にいなかった人や掲示板を見れていない人は置いてけぼりです。置いてけぼりを食らった人が意欲を失って傍観者になってしまうことも少なくありませんでした。情報共有の徹底ひとつでメンバーのモチベーションをムダに落とさないということがあるのだと再確認しました。

集団生活でのガス抜き
修行生と言えども不満やストレスを抱えます。人間関係の問題もあります。プライベートな時間や空間はありませんが、ガス抜きはしたい。そうすると誰かが居合わせるかも知れない場所で誰かに愚痴をこぼしたり、悩みを相談するということになります。この時ばかりはスマホがあればなあ…とも思わされました。悩みを聞くにも誰かに聞こえる場所でするとなれば率直なアドバイスができないということもあります。フラットな立場で話を聞こうと思っていても「熊谷は〇〇さん側の人間だから」みたいなレッテルを知らぬ間に貼られていることもありました。ビジネスマン時代には「メシ行こうか?」で済んだんですが、修行されられました(笑)

まとめ

ビジネスマン時代にはコミュニケーション手段の最適化についてセミナーを行なっていた僕ですが、前時代的な環境に身を置いて感じることが多くありました。特に手紙や電話等に暗黙裡に含まれた「ルール」にはハッとさせられるところがあります。新しい手段の方がコミュニケーション効率性は高いでしょう。しかし、結局のところ「このメッセージは相手に伝わるか」自問自答することに尽きます。コミュニケーションに手間が掛かるということは、それだけ自問自答できるタイミングがあるということでもあります。そのようなタイミングを通らざるを得ないと言ってもよいでしょう。もちろん、今のコミュニケーションツールだからと言って自問自答できない訳ではありません。メールやチャットを送る前、電話を掛ける前に今一度伝わるコミュニケーションになっているかどうか考えてみてもらえればと思います。

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