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ビジネスパーソンよ、「信仰ごっこ」をはじめよう

宗教家になって教えを学んでいると、ビジネスマン時代の経験が腑に落ちることが少なくない。ビジネスにも道理というものに沿う必要があるし、成功を収めるための取組みは信仰実践に重なるものがある。生き馬の目を抜くようなイメージがつきまとうビジネスの世界だが、名だたる経営者による名言にはむしろ高僧のような風格すら漂っている。

僕の考えでは信仰はビジネスを軌道に乗せるのだけど、とはいえ多くの人にとって信仰をはじめることはハードルが高いだろう。だからここでは「信仰ごっこ」のすすめを説こうと思う。

イノベーションに必要とされる発想の転換

イノベーションには人をハッとさせる発想の転換がある。失敗作のはずだった粘着力の弱い接着剤から生まれたポストイット、多店舗展開を不動産業とみて大成功を収めたマクドナルドのレイ・クロックなど、イノベーションには発想の転換にまつわるエピソードがついてまわる。

イノベーションによる経済発展理論を提唱した経済学者・シュンペーターは、イノベーションのことを「ニュー・コンビネーション(新結合)」と呼んだそうだが、まさしく「既存のモノの未知の組み合わせ」が革新を生むのである。凝り固まった視点から逸脱することこそイノベーションには不可欠なのだろう。ここで少々強引ではあるが、話を引き寄せてみたい。

元は「宗教」の専売特許

今でこそ保守的なイメージがつきまとう「信仰」や「宗教」だが、元々、発想の転換などは「宗教」の専売特許であった。

そもそも、日々を暮らす視点からは見えない「来世」があるとすること自体が固定観念からの逸脱だ。弱者も救われることを説いたキリスト、輪廻から解脱できると説いた釈迦、悪人こそ救われると説いた親鸞と、固定観念からの解放を説いた宗教者を挙げればキリがない。

また、日常の視点においても「宗教」は視点をひっくり返す。「病気をした」と言えば「これまで健康だったのはありがたいね」とか「これまでのありがたみが分かるね」と言う。「苦労させられた」と言えば「遭遇するはずのもっと大きなトラブルをそれだけで済ませてもらっているのだろう」と言う。毎日が発想の転換の連続なのだ。それでは、「宗教」に発想の転換を可能としている要因は何だろうか。

他の視点があるという確信

発想を転換するには、先入観を離れて別の視点に立つことが大切だ。しかし、その自分の考えが絶対的なものだと考えるなら、決して最初の視点を離れることはできない。現在より優れたビジョンがあるかも知れない(あるいはあるに違いない)という祈りに似た思いがあってはじめて視点を移すことが可能になる。そして、信仰には常に自身以外の視点があった。

「お天道様が見てござる」そんな言葉を聞かなくなって久しい。一昔前の日本には確かにお天道様がいた。誰も見ていなくても、悪事は働いてはいけない。誰も見ていなくても、善事を重ねるべきだ。お天道様は見ているのだから。ほんの数世代前の方には下着を日向に干さないという習慣があったようだ。下着泥棒対策やプライバシー保護などではなく、お天道様のお目を汚してはいけないからだと言う。しかし今はどうだろう。最も光輝くはずの存在が影を潜めている。

その一方で、現在お天道様の代わりに我々を見下ろすのは人工衛星だろう。それらは無機質な眼で地上を写し撮る。しかし違法な行動を制限する効果があったとしても道徳的な行動を促すことはない。お天道様と違って人工衛星は価値判断をしないからだ。しぜん、私たちにとってモラルは見られているときに守るものとなっていった。

「神は細部に宿る」

神様は私たちのことを天から眺めているだけなのだろうか。西洋の格言「神は細部に宿る」をご存じだろう。細部(ディティール)にこそ神様がいるのだ、という言葉。これを読むにつけて、「マクロな神様(の視点)」だけでなく「ミクロな神様(の視点)」が思い浮かぶ。壮大に広がる世界だけでなく微小な世界の中にも、あるいは微小な世界の中にこそ、無限の神秘を感じることがある。世界の深層に向かう先の見えない螺旋階段を延々とくだり続けるようなイメージ。

「神は細部に宿る」という言葉を愛する人の多くは、何かを作り出す立場にあるのではなかろうか。細やかなところまで配慮されたプロダクトだけが、多くの方に愛されるライセンスを持つ。このような格言にも「神」が登場するのは興味深い。

なお、「みんなちがって、みんないい」(「私と小鳥と鈴」より)で有名な詩人・金子みすゞの詩に「蜂と神さま」がある。

蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀のなかに、
土塀は町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。

そうして、そうして、神さまは、
小ちゃな蜂のなかに。

「蜂と神さま」金子みすゞ

いろんなものがマトリョーシカのように、より大きなものに包まれている。そして、世界は神さまに包まれている。ここまではマクロな神様の説明として理解できる。ただ、最後の一文でひっくり返る。世界を包んでいたはずの神様が蜂の中に収まるのである。個人的には大いに納得できる内容だが、数学の集合論が頭に浮かんでしまうと混乱してしまうことだろう。論理にできないことをさらりとやってのける詩のチカラに脱帽すると共に、マクロな神様とミクロな神様の繋がりにも思いを馳せてしまう。…と少し話が脱線してしまった。

信念を持つこと

企業はもちろんのこと、個人にとっても「ミッション」は重要であろう。単に「儲けたい」とか「成功したい」という人よりも、自分の成し遂げたいことを持っている人の方が魅力的だし強い。そして、「ミッション」は「(人がその全てをささげる)使命」を意味する、非常に宗教色の濃い語なのだ。「ミッション」には「布教団、伝導団」という意味もあるが、かつて世界中に布教の場を求めて渡った者たちはまさに命がけだった。リスクをとり、耐えに耐えてこそ、得られるものがある。

そうとはいえ、ここは「ごっこ」のすすめだ。命まで差し出さなくても文句はないだろう。信念を持って、実践しよう。他者や誘惑に惑わされてはいけない。

そして、信念を共有する集団はしぶとい。高橋和巳の『邪宗門』に国に楯突いた教団が解散に追い込まれるシーンがある。教団が無くなり信者が散り散りになっても、その意志は各地で息づく。組織として体をなさなくなってもまだ生命力を持ち続けたのである。ミッションに心から共感できる企業や経営者が見つかったなら、そこは最高の職場になりうるだろう。

信仰ごっこをはじめよう

ここまでビジネスにおいて視点の転換や信念が重要であることと、それらと信仰との関係について見てきた。ビジネスでの成功を求める方は多いが、彼(女)らは信仰には向かわない。宗教は忌避されるようになり、信仰的な発想がビジネスにもたらす影響について気づきにくくなってしまったからだ。その代わりに、彼らはビジネス系のインフルエンサーによるビジネス書に手を伸ばし、オンラインサロンに加入する。もちろんすべてとは言えないが、その多くで紹介されるのは小手先のテクニックであり、ビジネスの現場と宗教の教えに触れた僕からすれば近視眼的なもののように感じてしまう。だから真似事でもいい。信仰ごっこをはじめてみることを勧めたい。騙し合いのようなビジネスから手をひき、神様から喜ばれるビジネスに転じよう。

では、どうやって信仰ごっこをはじめたらよいのだろうか。例えば次のようなことをお勧めしたい。

・自分に注がれるお天道様の視線を意識してみる

空を見上げよう。そこから注がれる視点を意識してみる。見ているのは人工衛星ではない、お天道様だ。お天道様はあなたをどんな目で見ているだろうか。その意識一つで少し背筋が伸びやしないだろうか。

・「ありがたいなあ」と口にしてみる

ストレスが溜まったからと言って、不平ばかり口にしていると徳と人とが逃げて行く。一時的には発散したようでも、むしろ失っているものの方が多い。じゃあ逆に「ありがたいなあ」と口にしてみたらどうだろう。理由はなくてもいい。むしろ、理由がない方がいいかも知れない。とりあえず声に出してみよう。自分は今、何に対して言ったんだろう?そこから発想が転換することも。

・「どうしてこんなことが起こったのだろう?」と考えてみる

同様に「どうしてこんなことが起こったのだろう?」という疑問を持つことも大切だ。動機や仕組みなど、「なぜ?」には多くの答え方がある。「相手のせい?それとも自分のせい?」のような二項対立を抜け出せたなら、そこには自由な世界が広がるだろう。

・まわりの人を祈ってみる

何か辛い状況におかれた人を見て「可哀想だね」「それは大変だね」と思うことがあるだろう。相手や状況によっては、放っておけないこともある。しかし、それが少し自分から遠くなれば他人事になってしまう。自分以外のために祈ってみよう。技術もお金も要らない。少しの間、心の内で祈るだけだ。そこから、あなたの「ミッション」が見つかるかも知れない。

まとめ

ずいぶんと取り留めのない内容になってしまった。もう少し具体的な記述を増やそうかとも思ったが、具体的にしすぎると大切なニュアンスが失われて、それこそビジネスの成功を約束するハウツー本のようになってしまいかねない。掴みにくい内容だが、ビジネスの世界に溺れかけている誰かの助けになれば無常の喜びだ。

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