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教育を考える―子どもの顔を見ているか

2023/3/23(木)教育を考える22
 今日は木曜日!張り切って教育のこと、考えていきましょう。
 今日取り上げているのは、教師はもちろん大人として自分の子どもに…自分の部下に…きっと少し自分を振り返るきっかけになってくれると思うので、目を通して頂けると嬉しいです。

自由な教育の精神
 子どもに何かを書かせていらしたのだそうです。すると、少ししたとき、端のほうの子どもが、とんとことんとこ出てきて、そこで鉛筆を削った。それでお席へ戻るときに、そばに水が入っていなかったらしい花びんがあった。それをカンカンとたたいていく。少したつとまたあっちのほうの子どもが鉛筆を削りに来る。鉛筆を削ったあと、カンカン。何人も何人も、出てきては帰っていくときにカンカン、いたずらをする。(中略)(その様子を見ていた)お母さん方が、ワーッと芦田先生のそばに寄ってきました。「先生、(中略)どうしてやめろっておっしゃらなかったのですか」と、その賢婦人の方々がおっしゃったのです。
 (中略)先生はお母さんたちに「そうですね、カンカン、カンカンってやったとき、だれかの鉛筆がとまりましたか」とおたずねになりました。すると、その賢婦人の方々は「あれっ?どうだったかな」と思って、お返事ができません。(中略)「それじゃあ、いいじゃありませんか。もし私が、いたずらするな、済んだらすぐ帰れとか一言でも注意をしたら、組中の子どもの鉛筆がとまってしまいますよ」とおっしゃって、ワハハッとお笑いになったということです。

「忘れえぬことば」:大村はま P26~

 この文章は、はま先生の恩師でもある「芦田恵之助」先生がはま先生にお話しされたエピソードで、はま先生が教師であるうえでの教えとして大切にされている事柄です。
 これ、ちょっとドキッとしませんか?
 私たち大人は「注意すべきこと」が目につくと、子どもの今の心理状態や「自分が注意をすることで子どもの邪魔にならないか…」という視点を忘れてしまっていることはないでしょうか?まるで「注意しないといけないことがあればこちらは何をしても許される」という免罪符でも持っているような顔で…
 でも、正直大人の感情次第の子どもへのかかわりのせいで、子どもの集中が切れてしまったり、集中していたそのものはないがしろになって注意されたことしか考えられなくなってしまったりすることは多く見られます。
 またはま先生は子どもへの注意について語られていますが、これは注意だけではなくいろんな場面でも言えると思います。
 例えば集中して宿題に向かっている子どもに向かって、大人の都合とタイミングで「プリント出したぁ?」なんて声をかける。
 集中して遊んでいる子どもに「かわいいから」とちょっかいをかけて触ったり、遊びの邪魔をしてしまう。
 …そんなこと、日々の子どもとの生活のなかで溢れていないでしょうか?
 
 教師の注意の必要・不必要については、それぞれ教師が自分の無意識の注意や声掛けの場面が子どもの成長の機会を奪っていないのか…ということを見極め、無意識を意識化していくことで、より人を育てるプロとしての力を磨くことになるのではないでしょうか。
 また親の立場としても、「子どもにもその子なりの時間が流れている」ということを理解したうえで、その時間を分断してしまうような存在にならないよう、尊重していける大人になっていけたらきっと子どもにとっての親という存在は今よりもっともっと有難くて嬉しい存在になるのではないでしょうか。

今日はここまで!
最後まで読んでくださってありがとうございます。

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