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教育に焦点を―「優しくない」教育は魅力だ

2023/5/18(木):教育に焦点を⑤
 今日も開いて下さったこと、感謝します。
 今日木曜日は、教育を深堀して考えよう!という方に向けた記事を書いています。
 

はじめに

 今日取り上げるのは実践家から教育を問い直す田中耕治らの記した書籍「時代を拓いた教師たちⅡ」。
 今週は、この書籍で取り上げられた中でも、元小学校の教員であり北海道教育大学の教授である今泉博の実践から学ぶ。

教材研究―教えたいことは教えない

 興味深い今泉の実戦での気づきは「子どもたちは教師が教えなくても、一定の事実さえ提供されれば、本質的なことを発見していけるのだ」という確信である。
 この確信をもとに、今泉は考える。

子どもたちのそうした力を無視して、教師が一方的に学習内容をわかりやすく教えるために教材を工夫し、資料を準備し、指導の展開を考え、板書計画をすることは、かえって子どもたちが力を発揮する機会を奪うことになるのではないかと考えるようになる。
 授業中の子どもたちの姿に自らの授業観を揺さぶられた今泉は、そうした経験をもとに「教えたいことは教えない」という授業の原則を確立する。(中略)
 教材研究は、わかりやすく教えるために行うものではない。それは価値ある教材と子どもたちを出会わせるため、授業中に飛び出てくる子どもたちの多種多様な発言の価値を理解できる素地をつくるために行うものであると今泉は主張する。

時代を拓いた教師たちⅡ 田中耕治:編著 p34~

 この今泉の主張はどこか大学の学び、所謂「学問」に似た感覚があるのではないだろうか。 
 所謂「学習」の「習い学ぶ(真似ぶ)」というものよりも、もう一歩深化させた「問いを学ぶ(真似ぶ)」といった感覚である。
 この決定的な違いは「受動的」から「能動的」という子どもの意志の違いであり、平たく表現してしまうと、授業のある種のイニシアチヴを持っているように見えるのは教師生徒のどちらに見えるか…と言い換えても違わないのではないか、と私は考える。
 

教育実践者の共通点

 そして今泉の考えは、この木曜日の教育の投稿に何度も登場してもらっている大村はまさんの「教材研究」観や教師観と比べて考えるとどうだろう。
 一見大村の方がより手厚く具体的に生徒の学びに手を添えているように見え、対して今泉の主張は何処か傍観めいたものを感じさせらる。
 しかし、教師としての視点や、子どもの発言に耳を傾け表現を注意深く観察し理解し、育ちの芽を伸ばそうとする姿は、とても似た姿なのではないだろうか。
 きっと授業をしている今泉先生の後ろ姿と大村先生の後ろ姿は、生徒の姿にワクワクと嬉しそうな期待を持って知りたい思いが前傾姿勢に表れて…なんて似たような後ろ姿なのではなかったのだろうか…?なんて、大それた生意気な想像ではあるが、勝手に少し微笑ましくも思う。

 さて、今泉の教育のベースにある考え「教えたいことは教えない」を実践するにはどうすればよいのか? 
 「子どもが勝手に気付くから教えなくていいんだ」なんてただ教えないのは、単なる仕事の放棄である。
 今泉はどこに焦点を絞って子どもたちを見て、何を大切にしてきたのか…以下に学んでいきたい。

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