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遺影は必要になった時には遅いかもしれない

ふと思ったこと、自分が最期を迎えた後に目に見える姿として唯一残る遺影。そこに写る自分はどんな姿でありたいのか。ビシッと決めた写真はもちろん良いけど、好きな人たちに囲まれている時のいつもの表情も良い...。人によって価値感は違うからこそ、何が正解であっても良い。

だけど、自分の写真が残っていることが前提のお話しだ。終活という言葉を目にする機会がある。基本的に死はタブーとして捉えられ、最も身近でありながらも無意識的に遠ざけている。

誰にも平等に与えられている事実。しかし、その時がいつ来るのかは誰にも分からない。若いからとか歳だからとか確実な根拠は一切無いのだからそういう瞬間が来るのは誰にとっても突然の出来事。

遺影をあらかじめ準備する人もいるが少数派のように思える。大概の場合は数ある写真を引っ張り出してきてから、それに相応しいものを家族が選んでくれる。事前にその意思表示をする機会すらないのだから、どれが選ばれるかはその時にならないと分からない。

僕の場合は生き生きしている時の写真が良いと思う。今この瞬間を自分らしく楽しんでいる写真。そんなものが選ばれれば悔いは無い。だからこそ元気な時や今を楽しんでいる時の姿こそ積極的に残しておきたい。その想いから日常を写真に残したいと強く思うようになった。

僕のおじいちゃんが亡くなった時は、僕が撮った写真が選ばれた。正直なところ、その時が近づいている雰囲気は日に日に強く感じていた。そんな時に焦って遺影になる写真を撮ろう!となっても、辛そうな姿を無理やり笑顔にさせて残したいとは到底思えなかった。

それが必要になる時期は分からないけれど、元気な時に残しておかないと手遅れになることは少なからず経験するかもしれない。遺影のためにだとか遺影を撮ろう!というのも向き合い方の一つ。他にも日頃から少しずつ日々の記録として定期的に残しておくことも大切。

写真に写る時の表情はその向かいにいる人の影響を受ける。ただカメラを眺めるのではなく、その先にいる誰かに向けられる眼差しが重要だと考えている。自分が写る時にどんな表情や視線が良いのだろうか。僕であれば最愛の人たちを前にした時に向けた視線や表情が良いなと思う。そう考えると日頃から誰に撮ってもらうかも影響してくる。

だからこそ、定期的に家族を撮ったりみんなで写る機会を設けたり日々の日常を写真に残しておく価値は今以上に未来で宝物になるだろう。きっと撮っておいて良かったと思える時がくる。最初は恥ずかしさや難しさがあるけれど、大切な人たちは撮れるときに残しておきたい。

そんな写真を撮ることさえも家族との会話や絆が深まるキッカケになるのだから。


SUBARU(マカベ スバル)
鳥取県在住 / なにげない日常をテーマに写真を撮っている / 出張撮影 / 写真イベント企画  / 鳥取のPR活動も行なっている。
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