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学校に行かなかった結果どうなった?~不登校・高校中退から一児の父へ~

私は平成元年生まれで、この記事を書いている時点では33歳です。最近は本当に不登校のお子さんも増えており、周囲と話しているなかでにわかに自分自身が不登校・高校中退経験者ということにコンテンツ力を感じています。笑

こういうのは一人一人のケースなんだと思いますが、悩んでいる親御さんも多いと思いますので、一つの「その後どうなったか」という事例として見ていただければ幸いです。

略歴:小学校不登校→高校中退→高認→大学進学→自治体職員→育休中

私が学校教育を受けはじめる頃に「不登校」が話題となるとともに、実際に私自身が不登校になりました。小学校2年生の途中~小学校6年生の途中までの期間が不登校です。中学校はとりあえず通いましたが、高校は1年ちょうどで中退。ちょうど大検から制度変更となった第一回となる高認を取得し、現役生と同じタイミングで立教大学へ進学しました。

大学ではちょうどリーマンショック後の不景気にぶち当たってしまいましたが、自治体職員として採用していただけました。そしてかれこれ11年ほど働き、先日娘が産まれ育児休業の最中です。

同調圧力が嫌いで小学校不登校になる

まず不登校になったのは小学校2年生のときです。原因としては複合的なところもありますし、もはや記憶もあいまいなのですが、印象に残っていることが一つあります。

ある日の「帰りの会」で、担任の先生がなんでか忘れましたが皆に向かってこう言いました。「小学生にもなって”星のカー〇ィ”とか、ダサくない?笑」

それこそ当時の小学生2年生なんてだいたい”星のカー〇ィ”が好きだったと思いますが、みんなその先生に向かって愛想笑いで「そうだそうだ!ドッ!ワハハ!」となるんですね。

こういう権威主義的な同調圧力が本能的に気色悪かったというのはあると思います。それで、親に「学校行きたくないわ~」と伝えたところ、「じゃあ行かなくていいよ」と。それから不登校です。笑

中学進学への不安と力量のある先生が復帰を後押し

不登校になってみると日中はヒマなわけですが、午後は学校帰りの友達とよく遊んでいました。当時はポケモンや遊戯王カードが流行っており、ニンテンドー64の初代スマブラも出たころです。毎日バトルに明け暮れる日々でした。笑

さすがに小学校6年生くらいになると、中学進学という先のことが不安にもなってきます。その頃担任をしてくださっていた先生が、非常に学校に戻りやすい環境を作ってくれており、その先生も好きだし友達付き合いもあったので、自らの意志で最後の半年だけ小学校に再び通い始めました。そして地元の公立中学校に進学します。

クソルールの同調圧力に馴染めない中学校生活

中学に行くとだんだん社会性が強くなってきますよね。先輩・後輩の関係も生まれるし色々規則も複雑になってきます。自分自身も思春期で不安定になる時期ですし、全然馴染めませんでしたが一応見よう見まねで通っていました。

当時、体育教師が行っていた「もみじ」という体罰がまだギリギリで残っていました。何かというと、グループでミスした生徒がいると、そのグループ全員が背中に教師から平手打ちを食らう。その後がまるで「もみじ」のようだから、とケラケラ笑いながら語ってる気持ち悪い教師の顔は印象深いですね。もっとも入学直後に問題となり相当怒られて廃止されましたが。

また暖房もなく灯油ストーブで冬を越していた時代ですが、寒いので授業中に手袋をしているとなぜか教師に怒られます。「手袋するなんて失礼だろ!お前なんか高校いけねーから笑」みたいな。

個別の案件が倫理的にどうなんだという話以前に、なんというか全体的にルールのためのルールを同調圧力で順守させる空間が無駄でアホらしいな、と本格的に思い始めたのがこのあたりです。

非効率な授業と小さな人間関係に耐えられず高校を中退

高校はすごく”普通”な私立に進学しましたが、こちらの教師のみなさんはとてもいい方ばかりでした。が、この頃になってくると授業がもう耐えられない。教科書読む→板書する→ノートに写すの過程が時間の無駄だろうと。なんでこんなのに一日6時間とか拘束されてんの、みたいな気持ちになってきます。

友人関係も結構楽しかったんですが、どうしても小さな世界にずっといるのが耐えられなかったんですよね。当時学校以外にも色々なコミュニティがあれば、また違ったのかなとも思っています。

そんなんで色々とフラストレーションが重なり1年で中退しました。ただすることもないんで大学は進学しとこう、と思い独学での勉強をはじめます。

大学受験で学んだのはセルフマネジメント

結果として高校に1年通ったことは有利に働いて、当時大検が高認に代わり、家庭科などの科目がなくなるのと、高校に通ってた分の単位が認められる制度になっていました。そこで高認の受験科目は世界史Aと生物Aの二科目だけで済んだのです。なので中退後すぐ次の夏、同級生が高校2年生の頃には高認に合格していました。

その後約1年半かけての大学受験は孤独で辛かったですね。それまでちゃんと勉強したこともなかったので、自分なりに戦略を練ってスケジュールを組み、毎日の勉強時間を記録してセルフマネジメントしながらやってました。予備校は単科をいくつか取ってそこでキャッチアップしていきました。

結果的にかなり非効率な部分もありましたが、運よく立教大学に合格することができました。正直勉強云々よりも、セルフマネジメントして一定の成果を出す、という成功体験をできたことの方が大きかったんじゃないかと思います。

特に高校中退で困ったことはなく、だんだん持ちネタとして便利に

たださすがに燃え尽きてしまい、大学生活では麻雀に明け暮れたり、「(単位の来る)C評価以外は非効率」と謎のイキりを発揮して刹那的な時間を過ごしてしまいます。

就活の時は不景気で志望の民間が採用シブすぎることに気付き、焦って公務員試験の勉強をはじめました。

「高校中退って就活のときどうなんだろ?」ってのは正直、気持ちの中にありましたが、全く関係なかったですね。履歴書には書きますが、そもそも触れられないことがほとんどで、面接を終えて合格をもらえました。

民間の方はピンキリだと思いますが、まぁ嫌なこと言ったりしてくるところ(実在するのか分かりませんが)はどうせヤバイ企業でしょうから、こちらから願い下げでよいのではないでしょうか。お付き合いが生まれる前に避けられてラッキー、ということですね。

ということで、個人的にはその後高校中退がネックになったり、嫌な思いをしたりということは一度もないです。(小学校不登校は履歴書に書かないので特に論点となりませんがこちらも困ったことはないです。)

むしろ大人になると経歴に希少性があった方が便利だと思います。おかげで興味を持っていただく機会も増えてきましたので。

子どもには様々な選択肢を提供したい

最近流行りの楽曲、adoやyoasobiを聴いていると、今の若い世代にも自分を外に出せない閉塞感に苦しんでる方がいるんだろうなーと思ったりもします。

学校教育の意義や可能性について否定するつもりはないので、本人が楽しく通う分には通ってほしいと思っています。でも、現状として狭い関係性や同調圧力に苦しむ場にもなりかねないし、社会に出てその同調圧力に親しむことが役に立つのかというと、それは足かせにしかならないと感じます。

そんな中で自分自身の娘が生まれた今思うのは、教育も子どもにとって選択肢があってほしいなと。そしてそれをどう作っていけるのかが、自分の役目だなと。

親となった不登校の先駆け世代としてはそう思っているのでした。


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