見出し画像

エッセイ|小さな葛藤 『も』

文・矢内原美邦 (1749字)

 戯曲を書いていると、あんなこともあった、こんなこともあったと、何度もうなずきながら書く。考えてみると、私は忘れるということが一番怖いことのように思って生きてきたのかもしれない。それは幼い頃に目の前で祖母を交通事故で亡くしてしまったことも関わっているんだろう。「亡くなった人のことをいつまでも憶えておくわけにはいかないよ」現場に一緒にいた母は美容室の仕事をしながらお昼は忙しくそうに言うんだけど、夜中になると祖母の写真を見ては「なにもできなかったなー」と悲しそうに呟き、後悔していたがそれも10年、15年とたつうちに少しづつ日常になった。そんな経験のせいで、昔のことを何度も、何度も思い返し、記憶について何度も、何度も考える大人になってしまった。今日考えていることは明日には忘れるかもしれないという不安だけではなく、最近では、今日考えていることも、明日考えていることも、明後日も、まさか、まさかの同じじゃないか! という現実もプラスされ、不安と恐怖と心配を同時に抱えながら、友達もいないまま大人になったんだなぁと思う。以前、シェイクスピアの生誕450年のお祝いを都内の劇場でやるので何か書いてくださいという依頼を受け「ジュリアス・シーザー」をモティーフに「戦略的な孤独」という戯曲を書いた。450年前って、シェイクスピアってすごいくない? と思いながらこの戯曲に出てくるあまりにも有名なあの台詞、「ブルータス、お前もか」の『も』について、極端に言ってしまえばその『も』についてのみ書いて戯曲にした。信頼していた人に裏切られることを意味するこの『も』の表現。この『も』には、人間同士の裏切りやコミニケーションから生じる孤独、疎外、それら永久的な連鎖がこめられているように感じる。人はこの連鎖から逃れるために、その安易なひとつの手段として孤独になろうとする。例えば、空を見上げるという行為は、周りに人がたくさんいたとしても、見上げたその瞬間にもう周りのことはどうでもよくなって、ひとりになれる瞬間があって、それが私にとっては、この『も』だったりします。「どこまでも自由ってことは、どこまでも孤独ってこと」と、私の好きな昔の映画にはそんなセリフがありましたが、そんな孤独のあり方はここ数年大きく変容してきていると思います。私自身もそうですが、友達のいない自分の身を守るために戦略的に孤独を身にまとい、永久的な連鎖から逃れるために色々な『も』を選択してきました。どんな『も』を選ぶのか? その結果もたらされる未来は誰にもわかりませんが、それが意図的にせよ、無意識にせよ、わたしたちは常にその選択を迫られていることを最近実感しています。とにかく、この『も』には絶望の念が込められていますが、私は迷いながらも、希望の『も』を見つけ出したいと思いながら戯曲に取り組み、結果、完全なオリジナルな作品を書いてしまいました。それで上演をどうするかとなって、タイトルだけでもシェクスピアの感じを残して上演しようとなった。ありがとう。シェイクスピアのことを書かずに好き勝手に『も』だけを書いたことをいつかシェイクスピアに謝ろう。ただ、あの『も』のなかには、街を捨ててどこか遠くで生きていこうとすること、自分自身の価値を他人に決めさせてしまった後悔があった。日本の片隅の、その端っこで起こったことを忘れないように、たくさんの『も』をその戯曲に書き込んだ。自分の価値は自分で決めてほしいという思いを込めて。ここ数年は一緒に仕事をしてきた尊敬する人たちが亡くなった年だった。演出家劇作家の宮沢章夫さん、プロデューサーの池田修さん、大学などにも講義にきてくださった演出家の唐十郎さん、音楽家の坂本龍一さん、舞踊家の黒沢美香さんそうして学生時代から演劇が大好きだった私のゼミ生だった松尾太稀くんも…きっとこの人たちに出会わなければ、みんながそれぞれに『も』を抱えているんだということに気がつかなかっただろう。たくさんの『も』に出会った後に、もう一度どこかで、またどこかで会えるんじゃないか、会えないけど会えると思うことにして、今は悲しく寂しくなる記憶でもそれが一緒にいた証なのだから今日も新しい『も』について考えてみる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?