杏珠_note_イラスト

年を経る美 text by あんじー no.2

  この話に関連して、経年の美について谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』の文中で語っている。私のお気に入りの文章のため、少々長くなるが引用させていただく。

 われわれは一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳りのあるものを好む。それは天然の石であろうと、人工の器物であろうと、必ず時代のつやを連想させるような、濁りを帯びた光りなのである。尤も時代のつやなどと云うと善く聞こえるが、実を云えば手垢の光りなのである。支那に「手沢」と云う言葉があり、日本に「なれ」と云う言葉があるのは、長い年月の間に、人の手が触って、一つ所をつるつる撫でているうちに、自然と脂が沁み込んで来るようになる、そのつやを云うのだろうから、言い換えれば手垢に違いない。…西洋人は垢を根こそぎ発き立てて取り除こうとするのに反し、東洋人はそれを大切に保存して、そのまま美化する、と、まあ負け惜しみを云えば云うところだが、因果なことに、われわれは人間の垢や油煙や風雨のよごれが附いたもの、乃至はそれを思い出させるような色合いや光沢を愛し、そう云う建物の中に住んでいると、奇妙に心が和らいで来、神経が休まる。

 ここで谷崎は銀食器の愛で方が西洋と東洋で異なることについて語っている。丹念に磨かれたぴかぴかと光る銀食器をよしとする西洋に対して、東洋ではある程度使いこまれて輝きが鈍ってきた風合いのあるものを愉しむのだという。この東洋の考えは、時代のつや、つまりは物が重ねてきた時間を尊ぶ態度である。

 一見すると、新品のようなキズや曇りのない物の方がよいと感じるかもしれない。しかし、ぴかぴか光る比較的新しい物と輝きの鈍い時代を経た物をじっくり見比べると、後者の方がより魅力的に思われる。それは谷崎の言うように少し汚れのついたもの、またはそんな風合いや光沢のあるものに対して親しみを感じるからだろう。そしてその親しみは普段からその物を愛用し、長い時間をともに過ごしてきたから湧いてくるのである。

 例えば私たちは履き古してうす汚れた上履きを新しい物と交換するときになんともいえない寂しさを感じなかっただろうか。また、名前が消えかけていて、自分の物か見た目でははっきりと判断がつかない時、使い込んだその上履きを試しに履いてみると足にしっくりきて自分の上履きだとわかった、そんな経験が誰しもあるのではないか。その寂しさは物に対する親しみである。足にしっくりくるあの感じは、くたびれるまで履いた上履きの感覚を身体がきちんと覚えているということである。頭で記憶するのとは違って、身体が物事を記憶するまでには時間がかかる。時間はかかるけれども、頭で記憶しているよりもずっと感覚が鋭い。この感覚が経年の美を感じ取っているのである。

(no.3 に続く…)

☆あんじー☆ 見出しイラストの大学一回生。京都府在住。今ホットなのは韓国風巻き寿司と『数学する身体』という本。彼女とたこ焼きパーティーをする際は、「たこぱ☆」ではなく「たこ焼きを用いた親睦会」と呼ぶことが義務化。


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