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【妊娠・出産・子育て疑似体験ボードゲーム】を作るわけ。10代・20代女性に知っていてほしいこと。

えいこです。

実は今、ボードゲームを作ってるんです。今日はそれについて書こうと思います。


妊娠・出産・育児&自身のキャリアとこんなにハードだと思わなかったな私の人生。


それでも周りに助けてくれる制度や人がいる。知らないと使えない、教えてくれる人もいない…

ならば遊びながらこんな世の中の仕組みになっているんだなっていうのを学べるツールがないかな…

と思い、そうだ、ゲームを作ろうと思いたったのが2020年11月ぐらいだったと思う。


協力者を得て、事業化できそうなプラットフォームを準備してもらい、チームでゲームを設計している。

まじかー…やったぞえいこ。ここまで来たぞーって自分によく言ってる(笑)

他の人からしたら「家庭も仕事もありながらお金にならないことに熱心にすごいよね(笑)」と笑われるかもしれないけど、ここまでに至った経緯を書こうと思います。ちょっと長いです。


10代後半~20代前半の女性に知っていてほしいこと

このゲームは10代後半、20代前半の「えいこ」にやってもらうことを想定しています(ペルソナ設定というやつ)

なんでその当時の私をターゲットにしてるかいうと、その時にこれから起こりうるであろう危機や、それをカバーする日本・自治体・任意団体・民間のサービスをワードだけでも頭に入れておいてほしかったから。

危機(流産や手術)は回避できなかったとしても、それを救う手立ては意外とあったり、なかったり(無いんかい!)。なんにせよ、結構積極的に調べないとそんな大事なことを学校教育では教えてくれない。

そして知っていることで困っている友人にアドバイスすることもできる。

学生のうちに妊娠した子が居たって、「こんな制度があるって聞いたことあるよ…」この一言で救われるいのちがあるのだ、というのを身をもって体感した30歳のわたし。

単語さえ出てくればお手持ちのスマホでなんぼでも調べられる。

ワードだけでもいい、頭に入っていれば、「あの時のわたし」はもっと救われたのかもしれない、救われなかったのかもしれない。


というのも、ペルソナ(ターゲット)を10代後半の頃の「えいこ」と設定しているわけだけれども、救いたいのはこの時のわたしではない。

本当に救いたいのは28歳のときの「わたし」だ。

ちょっと長くなるけど、今ならようやく話せる気がすると思い書きます。


28歳、手術と入籍

大学院では自分の望む研究室に入り、就職氷河期の中、同期の中で2番目に就職先が決まったわたし。

第一志望の会社に入れ有頂天で入社し、上司からは期待され、ものすごく仕事に邁進していた毎日。来る日も来る日も残業し、突然卵巣の病気だと診断され、即手術と言われた27歳。

命に別状はないし、腫瘍は特大サイズだったが痛みもないし、ぼんやりと実感がわかなかった。

医者に「腫瘍が大きく、最悪の場合、両方の卵巣を摘出しなければならないかもしれません。まぁ残せるとは思いますが」と淡々と説明されたことを覚えている。

別に子供を好きでもなんでもなかったし、どちらかというと苦手だったのであまり子供が欲しいとも思ってなかった

結婚だって好きな人が居て、適齢期が何歳かよくわからないけど、いつかはするものなんだろうなぁと、その程度に思っていた。きっとディズニーランドまではいかないまでも、きれいな恰好をして、おしゃれな料理とともにプロポーズされるものだと思っていた。

あまりの突然の宣告に、頭が真っ白になった。

私はその当時、彼のことが大好きで、きっとこれが最後の恋だと思っていた(今も思ってるよ…とフォローを入れておく(笑))

だからもしかしたら相手はものすごく子供が欲しくて、私が子供が産めなくなるかもしれないとなると、別れを切り出されるかもしれない…と急に怖くなって大声で泣きながら電話した。


そう、その時私たちは遠距離恋愛だった。

兵庫県の田舎と、石川県という微妙な位置での遠距離恋愛であった。

私が手術前にその辺ですっころんで緊急開腹手術になっても連絡が行かない、という状況は絶対に回避したいのでとりあえず入籍しようと当時の彼氏に言われ、あれよあれよと手続きだけ済ませた。別れを切り出されるかと思っていたのですごく嬉しかったが、いかんせん発端が発端なだけに入籍!ハッピー!とはいかない。人生とはそんなもんだ。


無事手術を終え、卵巣は無事二つとも残った。片方はほとんど除去されたため、2回に1回妊娠しやすい周期が来るという感じになった。

その時はまさか健康体の私が手術なんてすると思っていなかったし、とはいえ手術は成功、まぁ健康になったからもう大丈夫だ、当分また仕事に邁進しよう…とはならなかった。丸2カ月、残業続きの職場から離れて地元に帰り、ふと私はここで何をやってるのかな?と考えるようになった。


私たちは引き続き遠距離で生活していた。恋愛の延長だった。さみしくはあったけど、でもお互い仕事をして友達と遊んだりとプライベートは充実し、月に数回会ってデートをして楽しく過ごした。


手術から一年後、妊娠

『医者はなんやかんや言ってたけど、ほらやっぱり妊娠するんじゃない。当然よ、わたしは女なんだから。やることやったら妊娠するに決まってるじゃない』

と思っていた。


あれよあれよと体調が悪くなり、トイレで吐いたりすることが増えた。

入籍したけどお互い仕事もあり、週末婚状態だった。月に1度ぐらいは夫が家に帰ってくるが、二人で住もうと借りた家は無駄に広く、使っていない夫の部屋はがらんとしていた。

片付け好きな私としては、他人と共同生活をやっていけるのか、ストレスが溜まりそうだな…当分一人暮らしの方が良いなぐらいにしか思っていなかった。

部屋も広い方が良いし、と普段は私が一人で暮らすわりに広い部屋を借りていた。

未だにあの部屋の風景を思い出す。つわりで眠れず、一人でトイレで吐き、部屋に戻ろうとするときに真っ暗なリビングや荷物がほとんどない夫の部屋を見て、あぁ…私は一人なんだ…とむちゃくちゃ悲しくなった。

体調が悪くなると同時に猛烈に将来が不安になってきた。

私の仕事は?キャリアは?産休育休取って何年も離れるの?どうなるの?なんで女だけこんな目に合わなきゃいけないの?なんで今妊娠なの?なんでなんで…とぐるぐる自分勝手な考えを巡らせていた。


つわりが突然なくなった

そんな体調も思考もぐるぐるした状態だったが、ふと急に楽になった時があった。あれ?もうつわりって終わり?そんなもんなん?

スマホでググると「初期流産」の文字が出てくる。何それ…しかもこの確率って結構高いじゃん…原因不明ってなに…?


妊娠8週目を越えて胎児の心拍が確認できない場合は流産と認定され、即手術の段取りが決まる。8週目を越えるまで不安で不安でしょうがなかった。

一人だった。会社でもメーカーのザ男社会の中で働いていたから誰にも相談できなかった。家に帰ってもやたら広く暗い部屋が私を待っているだけだった。

産婦人科には一人で行っていたが、8週目を越えて心拍を確認するという検査のときほど、誰か一緒にいてほしいと思ったことはない。

予想は的中し、心拍は確認できなかったため、即手術となった。


私は泣きながら産婦人科から歩いて帰った。

つわりがなくなった時点でそんな予感はしていた。

何とも言えない喪失感。あー、子供が苦手でもちゃんとこうやって悲しむようにプログラムされてるんだ。すごいな人間は。と思いながら、私は私をめちゃくちゃ責めた。

子供を産むことができるのは、旦那と私の関係において、私だけなのだ。私の責任だ、私の何が悪かったんだ…自分のキャリアなんて、こんなに悲しいなんて、なんなんだ自分の今までやってきたことは。原因不明ってなんだ。誰か教えてくれ、誰か、聞いてくれ。こんなに悲しいんだわけがわからないよ。

ぎゃんぎゃん泣きながらとぼとぼ歩いても私は誰からも声を掛けられることもなかった。やっぱり私は一人だった。

手術の日まで全然眠れなった。それでもつわりが無くなり腹は減る。こんな時でも腹が減る。もう身体は次にと切り替えてるんだと思い、余計悲しくなった。

手術の前日に子宮口を開くバルーンという器具を入れた。陣痛促進剤も何もない、ただ痛かった。また泣いて帰った。ここでも一人だった。

手術の日は仕事で来れない旦那の代わりに義母が来てくれた。実母も遠距離だし旦那も遠距離だし…と近くに住む義母に手術後泊まってもらった。

たぶん普通の状態だと私と義母が二人で一晩明かすなど考えられないと思うけど、その時はただただ誰かが家にいてほしかった。

二人きりじゃなかったら色々聞けなかったことも話してくれた。自分の母親以外にも、妊娠出産で苦労している人はいるのだなと、当たり前のことなのに頭でわかっていても真に理解はできていなかった。自分がその立場になってようやくわかった。


手術の後の様子はぼんやりとだけど覚えている。麻酔でがくっとなった後、気づいたらドサッとベッドに寝かされて、体が重くてひたすら寒かった。

余り口数の多くない義母が「大丈夫?さむい?」と聞いてくれて麻酔でうまく口が動かせなくてパクパクしてたと思う。布団を掛けなおしてくれて、その温かさに涙が止まらなくなって泣いた。こんなつらいって聞いてねーよ馬鹿野郎。誰か教えとけよ。


一年後、私はまた妊娠した。

今度もがっつりつわりが来た。来た来た、この感じだ。妊娠だろ?わかってんよ。しんどいけれど嬉しかった、でもしんどくて心が折れそうだった。

その時は夫が転職し、一緒に住める状態になっていた。

夫も夫で出産・育児に纏わるステージのセコンドとして、遠く離れた土地で一人「俺はこんなとこで何をやっているんだ」と心底思ったらしい。あんなにうだうだ言ってダラダラしていた転職活動なのに、搔爬手術(流産の後にする手術)の後、ソッコーで転職を決めてきた。彼は彼で無力感に苛まされただろう。セコンドはセコンドなりの悩みがあるようだ。

そしてつわりでうんうん苦しみながらトイレに行くと、ある日出血で便器が真っ赤になった。私はまたスマホでググった。また「初期流産」の文字だ。

出血が一週間ぐらい止まらなかった。生理の時とは違い、結構な出血量だった。私はトイレを済ませ、水を流すたびに「わたしは産まれてくるであろう人のいのちを便器に流しているのだ」と思ってまた泣いた。

今度は一人じゃなかったし、またか…という気持ちもあり、一回目の時より泣かなかった。毎日ぼんやりと子供がいない人生を考えていた。それはそれで楽しそうだなと思い切るまで、なんやかんや一年ぐらいかかっただろうか。結構うだうだ悩んでいた。


「不育症」と診断される

二回続けて流産したことにより、医者から不育症と認定されて専門医の紹介状を渡された。

そこからは検査やなんやらで、これまた結構ヘビーな時期だった。夫婦ともに辛かった。これはこれで書く元気が出た時に書こうと思う。不妊治療、不育治療は当事者はわかる、結構闇が深い。


2回目の流産から1年、3回目の妊娠をした。不育症治療をしながらの妊娠だった。妊娠中の10か月、私はよく耐えたなと思う。気が狂いそうだった。

ちょっとでも胎動を感じなかったら即病院に行ってエコーを撮ってもらった。動いているのを確認し、よかった生きてる…とその一瞬だけ安心する。病院を出て電車に乗るころにはまた「動いてるか?ちゃんと生きてるか?」24時間ずっとハラハラしていた。

そんな状態のくせに私はやっぱり自己中心的な私だった。子供を妊娠したぐらいでは人間は変わらない。相変わらず自分のキャリアや子供が生まれた後の生活を不安に思っていた。

「ちゃんと産まれてきてほしい」「それでも自分の人生は邪魔されたくない」が両立…という綺麗な単語ではまとめられない、混在するのはあり得ることなのだなと思った。私の頭の中はぐちゃぐちゃで常に不安だった。


そんな時に一冊の本を読んだ。

「不育症をあきらめない」牧野恒久

不妊症ほど社会的認知が無く、そもそも書籍自体が少ない中で、この本はきちんと数字で語ってくれる貴重な本だった。

衝撃的だったのは不育症患者の人数だった。万単位なのだ。決して数百人レベルではない。

まじか、どこにいるんだ、同じ気持ちの、同じ傷をおった仲間は…話したい。一言話したい、「つらいよねー」って。それだけでいい。

不妊症患者もまだまだつらい環境ではあると思うが、不育症は単語すら知らない人もいる。私自身そうだった。

スマホで検索しても出てくるのは不妊症患者の掲示板、SNSのアカウント、コミュニティばかり。一緒そうで微妙に違うんだよ、いやなってみるまで知らなかったんだけどさ。どこにいるんだ万単位なんだろ?と思い検索しまくってわかった。全然コミュニティがない。いや、NPOもあったけど運営がうまくいかなかったのか無くなっている…。内閣府の資料は検索にヒットしたけど団体のサイトは閉鎖されていた。ショックだった。また一人になった気がした。


その時私の中の坂本竜馬が声を上げた。

「どげんかせんといかん!」

いやかっこよく言い過ぎた。ふざけるな!!と思った。

何が少子化対策だ!何が子供は3人産んでもらわなきゃだ政治家!!
何が科学技術だ!原因不明が6割以上ってなんだ!なんのための20万円の検査だ!1本3万円の注射ってなんだ!やたら痛いんだよしかも!!効くかわかりませんってなんだそりゃ!!ほんとに子供増やす気があんのかよ!
そもそも!!なんで!!3万人も同じ気持ちのやつがいるってのに出会えすりゃしないんだよ馬鹿野郎!!たった一言「しんどいね」って言いたいだけなんだっつーーーーーの!!!!!

と怒りを覚えた。これがわたしの原点だ。めちゃくちゃ長くなった。

それからまずは仲間探しだと自分の経歴を公開したり(このブログもそう)、アイディアを知り合いに見せて没ったりコミュニティを立ち上げたり、SNSで発信したりとできるところからとりあえず色々やった。全部パッとせずだいたい消えた。無力感に苛まれた。私は怒れるただのおばちゃんだ、悔しいなと思っている。今も思っている。もうあんな思いをするのは私だけで十分だ。誰にも味合わせたくない。

二人目妊娠もやっぱり「どげんかせんといかん」

とはいえ子供は無事に産まれてあわただしい日々の中、二人目を妊娠した。二人目の妊娠も一人目の時ほどではないにしてもやっぱり不安で不安でしかたがなく、一人は嫌なくせに誰にも会いたくなくて引きこもって悶々としていた。

失敗、失敗だけど、自分のアイディアをなるべく人に聞いてもらった。幸せなことで私の話を正面から聞いてくれる人が私の周りにはいて、こんな幸せな人生は無いなぁとつくづく思う。


そんな時にとあるコミュニティで副業・起業アイディアを発表しよう!というイベントが企画されていたので、参加ボタンをぽちった。アイディアベースでもボンヤリとしていてもOK!という甘い文言そのまま受け入れていたのは私だけだったに違いない(その日の他の登壇者はガチな資料で発表していて焦った)

とはいえ「不育症コミュニティ」ではすでに失敗していたのでこのアイディアのままではいかんなと思っていた。

そして徹夜で考えた。いや結果として徹夜になってしまった。腕枕でしか寝ない息子の頭の重みを右腕に感じながらひたすら考えた。正直、思い出したくないことばかりだけれど、でもいまこの瞬間、あの頃の私と同じ思いで眠れぬ夜を過ごしている女性がいると思うと「どげんかせんといかん」と思ってしまう。失敗したことも何度も反芻して改めてうまくいっていない自分にガックリくる。それでも自分のガックリなんてどうでもいいもんだと思いまた考える。

不育症コミュニティの失敗原因はずばり「暗い」のだ。永続性がない思い出したくない人もいる。自分も人に話すまでにだいぶ時間がかかった。それも不育症治療の一年目で運よく子供を授かって無事に出産している。そんな私でも時間がかかったのに、未だに戦い続けている人、戦いから離れた人に対して本当に良いアプローチなのか?うーむ微妙だ。イケてない。

もっとこう、超ハードな話題だけどポジティブに明るく話せないものか…

そもそもどういう状態ならあの時のわたしは「しあわせ」だったんだ?この経験から何を「発見」して、なんでそれを「もっと早く教えてくれなかったんだ!馬鹿野郎!」と思ったんだ?と考えた。

そして明け方4時にひらめいた。そうか他人の人生を疑似体験できたら心の準備ができてるからまだマシだ。人生ゲームだ!!!!

という着想を得て、人前で突貫工事で作ったスライドで発表し、予想以上に「面白いね!」と言って頂けてチームであーだこーだと議論をしまくって結局当初の発表とはかなり形を変えて、ゲームができるカタチまで来た。

そう、そのゲームのデモ版を明日、チームメンバーとやるんですよ。もう感無量だよ。一人だなーって痛感した時から、こんなに関わってくれる人がいる。さっき寝かしつけしてる時になんか涙が出てきて。いやまだこれからなんですけども…(笑)

なのでこんな経緯でやってます、というのをちょっとまとめてみたくなり書きました。これからもたぶん難関続きなんでしょうが、とりあえず一歩づつでもやっていこうと思います。


今日はこの辺で。最後まで読んで頂いてありがとうございました。







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