見出し画像

「模合」の精神は今に生きるか ー沖縄の「へそ」うるま市石川のローカル生活(33)

県外の人間が沖縄県民と日常会話していて、割と「?」となるのが「模合(もあい)」という言葉です。本日は模合について。

単なる飲み会にあらず

以下、例文から見てみましょう。

 例①「先週、高校の同級生たちと模合だったんだけどさ」

 例②「模合で貯まったお金で内地に旅行行ってきたんだよね〜」

現代の文脈で解釈するときは「メンバーが固定された月一程度の定期的な飲み会」でだいたい合っています。例①はそれで意味が通じますよね。ただ例②はこれだけだと意味が分からない。模合の本来の意味合い、「庶民金融」機能を理解する必要があります。ネット上にも色々な解説記事がありますが、僕も簡単にルール説明してみます。

固定メンバーが、定期的(月に一回程度)集まって、全員が同額の小口現金を出し合い、その月の「親」(順番に変わります)がそれを総取りするというのが基本ルールです。

例えばメンバーが6人いて、一月に5,000円を支払うルールだと、5,000円×6人で30,000円がその場で集まります。「親」は30,000円を受け取ります。「親」は毎月変わるので、大金を入手するタイミングがみんなちょっとずつズレるという形になります。(ちなみに模合で集まって飲み会をする場合、その代金は、模合のお金とは別に精算することが多いようです)

実際に見聞きした「模合」

沖縄本などを読んで知識として知ってはいたものの、沖縄に住んで実際に見聞きしたときは「ホントにあるんだ〜」と感慨深かったものです。文具屋に模合帳という専用の帳簿が売っていたり、最近は模合用のアプリ(沖縄県民しか使いませんね笑)がリリースされていたりするのも面白い地域性だなと思います。

僕が石川で実際に見聞きした模合は、例えば

・高校の仲の良い女子会で、年に一度みんなで旅行する資金を集めるための模合
・高校の同級生で(那覇で働いている人も含め)月一回、地元に集まる模合
・昔から仲の良い地域住民の模合(幹事夫婦はオシドリで有名でした)
・居酒屋の店員と常連客で行う模合

など。最後に挙げた常連さん模合は、石川で僕も誘われたことがあり「え、県外の人間も参加できるんですか?」とびっくりしました。幹事役の店の店員さん曰く「信頼できる人であれば大丈夫よー。ただ、お金を受け取る順番は最後になっちゃうけど」と言われました。なるほど、持ち逃げされるのを予防するわけですね。

定期的にメンバー固定で飲み会するというのは縛られている感があってちょっとなぁ……と迷いつつ会費を聞いたところ「1回2万円」というのでソッコーで辞退しました。

常連さんの中には「来月、孫の高校入学費用やら支援するから、受け取り優先させてほしいんだよね」と幹事にお願いしている人がいました。1回2万円で例えば10人いれば20万円が入ってくるわけですよね(残り9ヵ月は払い続けるわけですが)。ああ、まさに金融として機能しているんだ……と横で聞いていて思いました。

なおこの記事だけ読むと、沖縄県民みんなが模合だらけの生活をしているように受け取られかねないですが、僕が知っている沖縄県民にももちろん「模合? 一個もやってないね」という人もたくさんいます。多い人で月に5〜6回は模合に顔出しているよ、みたいな人がいたかな〜という程度。これも個人的な観測の範囲ではありますが。

コミュニティの理想型なのか?

家族などの身近な人間でなく、職場関係など現時点の利害関係者でもない、第三のコミュニティについて、近年「サードプレイス」としてその重要性が注目されつつあります。

そういう「コミュニティの温かさ」を重視する風潮から見ると、沖縄の模合は理想的な助け合いコミュニティに見えるのかもしれません。僕もその意義を否定はしませんが、個人的にはちょっと濃厚すぎるかな……。進学や就職で住まいを転々として生きてきた僕の立場だから、余計にそう感じるのかもしれませんが。

例えば僕が聞いた石川の高校の友人たちが集まる模合は、飲み会欠席するとしても、模合の掛け金(2000円くらいでしたが)は欠かさず納付する義務があるそうで、メンバー固定なのも含めて、うーん、途中でドロップアウトしたくなりそう。

都市の人間は、濃密な地域社会の人間関係を捨てたことで自由を手に入れました。人の目を気にしない。どういう生き方をしても自由。しかしその代償として、社会性を失う=孤独の淵に立たされるリスクを背負うことになります。「孤独死社会」「無縁社会」など近年取り上げられる社会問題は、そのリスクの部分に光を当てているといえるでしょう。

その対極には、醤油を切らしたら隣の家に借りに行く、みたいな濃密な近所付き合いであるとか、地域との関わり合いの中で暮らしていく社会像があります。

お互いの多様性を尊重しながらコミュニティを守り共に暮らしていく……みたいな理想郷ができればベストかもしれませんが、僕は親族、PTA、町内会、マンション組合やシェアハウスなどでわかるように「仕事(お金)を介しない関係性」というのは例外なく面倒なものであるというのが持論です。

人間関係というのは、面倒だけどありがたい。ありがたいけど面倒。それとどう向き合い、折り合いをつけながら生きていくのか。モヤモヤするのは僕個人の長年の課題意識でもあるからなのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?