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こまぎれの記〜「愛の不時着」を観て考えたこと、一人では至れない高み

頭も体もすっかり怠けてほわんほわんしているので、活字リハビリがてら去年から今年にかけて考えていたことをつらつら書いてみようかと思う。

副題に盛り込まれた「愛の不時着」とは、随分前から話題の韓国ドラマである。私の周りにはこれにハマった人がとても多く、夏頃からあちこちで話題に上っていた。「21世紀におけるドラマの最高傑作」とまで評した人もいる。Netflixでしか観ることができないのだが、仕事の繁忙期に突入してしまい、今観てはいけないと必死に自制心を利かせて年末まで耐えていた。のを、この休みにやっと鑑賞することができた。全16話、1話約90分のドラマを、俳優たちの上手い泣きの演技につられて号泣しつつ観ること約4日間。12月の29日には全話制覇してしまい、年末年始のカウチポテトの予定がだいぶ狂った。

ここからネタバレ要素がてんこ盛りになると思うので、本編の楽しみを壊されたくない方はスルーしていただきたい。

「愛の不時着」は、財閥令嬢であるアパレル社長(美人、ビジネスセンスあり、敏腕経営者)が、自らパラグライダーとして新商品のスポーツウェアのテスト飛行中に事故に遭い、北朝鮮に不時着。そこで出会った軍人(中隊長)との間に恋が芽生えるラブストーリーである。彼女は会長である父親から、長兄と次兄の思惑も虚しく、次期財閥後継者としての指名を受け、近々開催される株主総会での発表を控えていた。その矢先の、不慮の事故であった。側近に告げた「急いで高いところまで登らなければならないの」という言葉の意味も明らかにされないまま、不時着地とその後の数々のトラブルのため捜索は難航。事故死したものとして扱われてしまう。帰るためのあの手この手の試行錯誤を繰り返しながら、第一発見者でもありかくまってくれる軍人とその部下との交流、地域住民とのやりとりを通じ彼女は、おそらく本国にいたままでは気づかなかった自分にも出会っていく。
後継者争いに熱心な長兄と次兄それぞれの夫婦模様と策略、北朝鮮の文化の違い、中隊長の婚約者をめぐるもう一つの恋模様……色々な要素がこのドラマが「面白い」といわれる所以だとは思うが、私は、これは恋愛をめぐる物語の伝統的なセオリーを現代に当てはめているのだな、と感じた。

昔から、人間が真実の愛を描く際に必ず欠かせないのが、「障害を理解しつつもそれを乗り越えて貫かれる想い」だと思う。貴族と使用人の間に生まれた身分を超える愛とか、年齢差とか、社会的な運命に翻弄される愛とか、とにかくそうしたものに人は愛の本質を見出そうとしてきた。「ロミオとジュリエット」は引き合いに出すまでもない。現代においては、身分も国籍も社会的な制約も(目に見えない形で影響を及ぼしているとはいえ)、昔に比べてその困難は緩和されている。しかし、現代にもそれがある、という設定を持ってきたところに、このドラマのヒット要因があるだろう。

当然、突っ込みどころはたくさんあるし、そういう描き方でええんやろか? と感じるところもある。でも、私がこのドラマから強く印象に残ったことが大きく3つあるな、と思った。

1つは、社会的に構築された制度の枠組みを超えるのは「個人」である、ということ。2つ目は、愛も学んでいくものなのだ、ということ。そして3つ目は、既述の2点の土台にあるのは「孤独」だ、ということである。

ドラマの中で2回、ここから先のラインを越えてはならない、という線が二人を分かつが、それを超える場面がある。線を越えているその瞬間、彼は「北朝鮮の軍人」という肩書きをなくし、剥き出しの一人の人間として彼女のそばに歩を進めている。
彼女を無事に帰国させるため、彼はこれまで隠していた高官の一人息子という立場を周囲に明かしていくことになるし、父親の特権を利用すればするほど、その国の制度に依って自分の人生が規定されていることもより明確になる。彼女をめぐる出来事の中で一層鮮明になるのは自分の役割と宿命で、それに忠実であればラインを超えることは決してできない。その越境を可能にしているのは、彼女を想うただ一人の人間としての彼だ、と思ったのである。これは彼女にしても同様である。何かにつけ情事が週刊誌のゴシップに取り上げられる経済界のセレブが、北朝鮮にいたことも、その国の軍人に恋をしたことも、社会的ステータスを考えれば非常に危うい。一刻も早く帰りたいのに、彼の危機を救うために彼女は帰国のチャンスを逃したりなどする。

2つ目については、これは金言だなと思った台詞がきっかけである。中隊長には両家で取り決められた婚約者(百貨店社長令嬢、チェリスト)がいる。そんな彼女が、これまた訳ありで北朝鮮に雲隠れにきた韓国の富豪(詐欺師)に諭される場面がある。中隊長の気持ちが自分にないことを知りつつ、南から不時着した彼女に彼が惹かれていく様を目にして、歯がゆい思いと敗北感を抱くのに、プライドが高くて認められない。しかも、そうした心の動きの正体がなんなのか、それさえも自分でよく分からない。そんな彼女の思いを端的に言い当てる。

「それは愛でなくて執着だ。愛が古くなって腐ったんだ。」

そうだよねえ、でもそれ、自覚するのけっこう難しいよねえ、と思った。世の中には、愛であるかのように見せかけた愛まがいのもの、がたくさんあって、人はときにまがい物の方を本物だと信じて疑わないことがある。あるいは、途中でこれはまがい物と気付いたとしても、それを認めることはこれまでの努力も今までの自分も否定することにつながるから、それが怖くて腐ったままの愛を必死に抱き留めたりする。
萩尾望都の『ローマへの道』という作品の中に、「あなたは、人生において愛を学んでこなかったのよ。だから、私の愛が見えないのよ。」という台詞があり、この言葉に出会って以降、そうか、愛って、学ぶものなんだな、と自分の心の深いところで戒めている。

すこし本筋からはずれると思うが、2020年はなぜか学生時代に書いた卒論(という名の拙論)を読み返す必要に駆られ、長いこと誰かに話すことはなかった話題として、ハンナ・アレントの『人間の条件』における「活動」を部分的に説明する機会があった。人間同士の関わりの中で展開される「活動」は、欠点である不可逆性と不可予言性(過去に起きたことを変えることはできない、未来に起こることを特定することもできない)を有している。しかし、これを克服する能力もまた、人間には備わっていると彼女は言う。前者に対しては「許す」能力、後者は「約束する」能力であり、これらはどちらも「愛」を源とすると言うのである。
私は学生時代、ここにはものすごく大きな人間関係への礼賛というか、希望のようなものがあるなと静かに感動したことを、思い出したりなんかした。

3つ目に考えたのは、「個人であること」も「愛する」ということも、その前提になっているのは「孤独」だ、ということであった。財閥の家族関係は冷たく、婚外子であるいきさつもあり、義母との悲しい思い出や光景が胸に巣くって離れない。自分がこんな状況になって、家族は心配して探しているのかどうか、それさえも疑わしい。予期せぬ土地で自分は独りぼっちだが、南でも結局独りぼっちだったと思い知らされる場面は少なからずある。中隊長も、敬愛する兄を政治的な謀略のため失ったことが大きな心の傷としてある。かつて夢見たピアニストとしての拳は武器を取るために、その運命も出生による家柄ゆえと割り切るしかない。本当に思っていることや、考えていることを誰にも言うことができない一人ひとりの内側の静寂。時を刻み待つだけの夜の海辺、聴く人はもういないだろうピアノと湖畔。哀しい景色は、時が経てばそこに愛の苗を植えていたとも気づく。

ひとは皆だれも孤独で、だから、生きている間に至ることを望む真理の一つが愛なのではないか、と思った。
その真理に至るためには、圧倒的に他者が必要であるに違いない。
孤独だけれど、一人ではない場所、そんな高みが、この世界に用意されているといい。

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