読書レビュー:政治哲学「リヴァイアサン」
政治公民で有名なホッブスの『リヴァイアサン』。「万人の万人に対する闘争」が有名ですが、実はリヴァイアサンは作品後半が宗教論を占めており、教会と政治哲学の関係を濃厚に展開しています。
自然状態
主権や政治を語る前に、人間が何ら手を加えられえていない時の説明から始まります。自然状態とは、国家が設立される以前の状態です。
そこでホッブスは「万人の万人に対する戦争」論を展開します。
コモンズの悲劇でもあったように、人間はコミュニケーションすることから、私個人としてはそんな簡単に戦争に至るとは思えず、机上の上理論です。また、当時の社会では「人間」には白人男性しか含まれていないのでしょう。
コモンズの悲劇の反論についてはこちらをご覧ください。
社会契約論
戦争を避けるため、ホッブスは以下をすべきだと提唱します。
これは、一人格の主権者を設定し、このもとに国家を成立させる理論で、人格論から代表制のもとになった考えです。
主権者となる者に対し権限付与を行う人民の信約に基づいて、主権の担い手として主権者という人格が形成され、主権者は人民の代表となる。主権者以外の者は主権者の臣民と呼ばれる。
ホッブスは主権者に権力集中させる考えが礎にあってこの内容みたいです。
ちなみに、統治契約論とは別物という姿勢です。
対してホッブスは、主権者は臣民に対し契約上の義務を負うわけでなく、自らの裁量で統治に必要だと思う以上には信約に制約されないと記します。主権者に都合いいように感じるのは私だけでしょうか。だからこそ王政に指示された彼です。これが中途半端だとイギリスのように内乱が起きると説得します。
さて、ここから後半でホッブスも力を入れている宗教に関するパートです。
神の言葉
神の言葉とは、以下の3つで伝えられると彼は説きます。
何よりも聖書を吟味することが大事とし、反乱分子として預言者や代弁者となる者はほぼ偽りであるとして反乱を抑えるようにしています。また、神が統治する神の王国はもう無いこと(イスラエル人が人間サウルを王に選んで神による統治を拒否したことを論説)を強調。
統治する人間の王が必ずしも完璧に道徳的に正しくなくても主権的預言者になりうるとし、主権的預言者の道徳性ハードルを下げる。王には喜ばしい訴えですね。
王国論
ホッブスは聖書を歴史的事実として以下のように解釈しています。
つまり、現世に神の王国は存在せず、キリストでさえ現世で王ではなかったので聖職者も権力は持たないことを明確化します。これは対抗勢力であるローマ教皇への牽制です。特にローマ・カトリック教会とプロテスタントの長老派が彼の念頭にあります。
アリストテレスの形上学、自然学、政治的学からの影響が誤りだとも記述し、同時に体が重いのが大地の中心へ向かおうとする努力(重力?)について意味のない言葉の羅列とあり、彼はガリレオに会ったはずなのですがイマイチ科学を信じていない様子(当時は宗教=科学だったこともありますが)。
人民が教会の言うことを聞きすぎると、本来統治すべき主権者の意見と二分されるので阻止する目的で、防ごうとしていた様子が分かります。
所感
本著ではリヴァイアサンに解説を加えながら引用し翻訳している入門編です。リヴァイアサン自体は4部構成なんですが、後半2部が宗教に関する話で、当時何を語るにも宗教がいかに大事だったかが分かります。
正直に言うと、実験も何もない考えのまとまりだけで信憑性に欠け、これが各国で読まれた本なのかと驚いてしまいました。特に冒頭に「人間について」という記述があり、身体に関する「科学」を論じていますがかなり適当でふわふわしてます。過去の著名な人物は全然完璧じゃないなぁと改めて思います。
西洋での医療行為に関する誤解はこちらからも読めます。
サムネイルは、ホッブスが何度か亡命したフランスにちなんで、フランスの権力の印であるヴェルサイユ宮殿です。
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