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いいかわるいかと、好きかそれ以外か。そして自己肯定感を上げることへの過剰さについて。

遠い昔、FM802の番組で、担当DJの最終回、番組の終盤で彼が言った。
「いい音楽、悪い音楽というのはありません。自分の好きな音楽かそれ以外なのです。好きな音楽をどんどん増やしてください。」
私は中学生か高校生で、自分が溺愛している音楽をつくる人たちこそが世界の中心だと思っていた。それ以外の世界、つまり溺愛対象以外の音楽は、聴こえているものの音楽としては消化せず、ただし差別をするわけでもなく、単に自分の中心に存在する溺愛対象を見つめているだけで、それはとても幸せなことだった。
時折、新しい溺愛対象ができるとそれは世界が拡張したことを意味し、中心の輝きが増し光の輪が広がる。光の当たらない部分との境界は確かに存在するものの、明確な線ではなく、緩やかで曖昧な光に彩られた境界だった。

最近、「好きかそれ以外か」ではなく「いいかわるいか」が妙にのさばっていると感じる。どんな小さなことでも誰かが「いいかわるいか」を決めたがり、そしてたいていが「わるい」結末を望まれている。

誰が決めたがっているのか。
誰が望んでいるのか。

企業SNSアカウントの炎上、差別発言、HSPなど心療内科に関わる新しい単語。
たくさんの事象に日々出会う私たちは、必要以上にそれらに対して「いいかわるいか」を決めたがっていないだろうか(そして決めたことを表明するまでがひとつの行動だと思っていないだろうか)。
決めなかったらどうなるのか、宙ぶらりんにしておくことは「わるい」ことなのか。あたかも生きる義務のように、息をするように自然のなりゆきで「いいかわるいか」を決めるのは、生きていくうえで本当に必要なことなのだろうか。

HSPなど心療内科に関わる新しい単語という事象を出したのは、昨今のこの流れが実は「いいかわるいか」を決める活動の遠因にあるのではと思い当たったからだ。SNSを経由した他者への発言可視化は、「いいかわるいか」を決めつけられる側の増加にもつながりうる。
これまでは聞こえなかった、関わりのなかった曖昧な発言元から発される、鋭く思いやりのかけらもない言葉が、いつでも自分の身に飛び込んでくる世の中。開かれることは素敵なことだが、反面ずいぶんと物騒になった。
そんな背景を見ると、自身の精神状態にラベルを貼ることで防御の姿勢を取る活動のごく一部を、新しい単語の誕生と関与を持たせたくもなるのだ。

「好きかそれ以外か」は「いいかわるいか」を物差しにすると、視野狭窄や境界設定という点で「わるい」にカテゴライズされることもある。というか、間違いなくされるだろう。ただ、昨今気になっているもうひとつの事象と照らし合わせると、「いいかわるいか」で解決することの狭窄加減に気づき、「好きかそれ以外か」に回帰する傾向へと揺り戻しが起きていると考えられる。

もうひとつの事象とは、
やたら自己肯定感を高めるという文字面を前面に見るようになった
こと。
コーチングなどのトピックでも必ず言われることだが、それ以外の場でも、とりあえず自己肯定感上げとけ!みたいになっている気がしてならない。

「好きかそれ以外か」を経る生き方をすると、自己肯定は勝手に高くなっていくものだと思っていたが、この事象を見ると世の人はどうもそうではないようだ。
それは「好きかそれ以外か」を経ていないからというわけでもなく、「いいかわるいか」にいつの間にか絡め取られ、心情の浸食を受けているからだろう。
例えばテレビ東京の我が道を行く姿勢、つまり「好き」を追求して「それ以外」はどうでもいいという番組を見ながら大笑いしたとしても、番組が終わった後の自身の生活はまた「いいかわるいか」に戻ってしまう。きっかけが提示されたとしても「好きかそれ以外か」の選択肢に気づかない人が増えてしまったことからの、自己肯定感上げとけ!なんだろうか。

この文章を書くのも「好きかそれ以外か」のコンテクストにいて、好きだから書いている。「いいかわるいか」を考えていたらこんなにも意味を持たない文章は書けない。自己肯定高めよう本を読むよりも「好きかそれ以外か」のスイッチを入れるスキルの方が人々には必要な気がした火曜日の夜である。

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