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玉名の友達と言葉のことを考える

今回の地震で強く出た傾向として、東日本大震災の時と比べてSNSをやっている人が増えており、そこに広い意味でのメディア(媒体が何であれ情報をどこかから取得する行為までもを含める)リテラシーはSNS利用率ほどに行きわたってはいないので、特にFacebookにおいては変な自己主張的なものからソース・オリジナルもわからないor怪しすぎるコピーにコピーを重ねたもはや記事とは言えない感想文のような体をなしている言葉の跋扈、というのが挙げられると思う。

そんな言葉と、熊本の玉名へ嫁入りした中学の友達のことをとりとめもなく考えた。

中3の冬に阪神大震災に遭ったとはいえ、玉名に嫁入りした友だちもその頃は父母と姉妹に囲まれて暮らしており、当日の実力テスト(受験する公立高校を学校側が判断するために行われる、定期テストとは異なる全範囲・全科目テスト)が1日延期になったり、ガスが1週間程度止まってお風呂は車で15分ほど走った先にあるゴルフ場へ入りにいくという事態にはなったものの、それが正しいかどうかもわからないけれど自分自身で判断をくだし生きるために行動を積み上げていく、という行為を直接的に行ったわけではなかった。

今回の地震で(この「今回の地震で」というフレーズはもちろん文章を書く上で言葉の指示として適当なものだが、なんだか書くと非常に軽い印象を受けてしまう。おそらくニュースキャスターが日々被害状況や亡くなった人数を読み上げるたびにこの言葉が使われており、それが現在日常の中のフレーズとしてインプットされているからこその感情であることは理解できるのだが、それでもこの陳腐というか軽々しい印象は、軽いがゆえにずきずきと突き刺さる)、彼女は母として2人の子どもを抱え、自らが判断して生きるための行動を選択し続けていく生活になった。

彼女が迷っているのは、

余震が続くなか、倒壊はしていないがこのまま揺れ続けるとどうなるかわからない自宅にとどまり、仕事で不在がちになる旦那なしで2人の子どもをみているくらいなら大阪の実家に帰って「余震からの倒壊」という心配事を解消したい。

けれど、旦那だけ置いていき、自分たちだけがそんな心配事を解消していいのかどうか。ということ。(裏にはもっと、嫁にきた自分が旦那側のご両親を残して帰省するように見られるのが嫌だとか、家族の事情がうごめく部分は多々あるものの端的に表現するとそうなる)

本人も「どうでもいい心配事やしうじうじしすぎてるのはわかってるねん」状態なのだが、それでもその「どうでもいい」ことは言わないと自分でも認識できないし、この事態でそれを言語化することはかなりの労力を必要とする。私たちはもはや守られるべき受験生、中3ではなく、いい大人になってしまっているので、伝えたいことは言葉を絞り出し文字として伝えなくてはならないし、その言葉が本当に適切かどうかを自分で判断して選ばなくてはならない。

本当に相手に届けたい気持ち、伝えたい自分の考えを100%言葉にすることの難しさが身に染みる。だからこそ、冒頭に書いた変な自己主張的なものからソース・オリジナルもわからないor怪しすぎるコピーにコピーを重ねたもはや記事とは言えない感想文のような体をなしているものを、タイトルやキャッチを見ただけでホイホイとシェアするその行為(そしてそれを知人が行っているという事実)に少しショックを受けてしまう。

彼女は今日もまたうじうじと悩んで文字を書き連ねているが、文字にすることでの整理は先週よりも格段に進んでいる。そして、同じ中3の1月17日以降を生きてきた地元の友達の励ましやアドバイスの言葉で、特に女子(もうアラフォーですが私たちはずっと中学生のていで付き合っているのでこの呼称を許してください)に共通していることがある。

判断するときに迷っても、何が正しいかは今も後もわからない。後で後悔したとしても、その時の判断が間違っているわけではないので頭で考えるな、ということ。

それは言葉・文字に落とすことを拒否しているわけではなく、生きていくためには(ありきたりの表現だが)言語化する前の野生の勘、直感の力を信じて何が悪いという生命の叫びのような気がした。言葉と直感のバランスが崩れて初めて、彼女のようにうじうじと悩んでしまうのだと思う。普段はそんなバランスが保たれているとも気づかず私たちは生きられている幸せを頭の片隅において、今日も言葉を介して彼女を見守っている。


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