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自然と人間の距離

GWに実家に帰省して久しぶりにNHKの(放送してる海外の)ドキュメンタリーを観ながら考えていたこと。
今回も投稿し忘れていたお休みコラムです。笑


人類の退化


最近 昔の人間より現代の人間の方が退化しているのではないか?、と感じるのだ。
特に、自然との共存。
昔の人類は、踏み越えない範囲で地球と共存しながら共に発展の道を探していた。
自然を壊さずに、生きるために森を管理したり土を長年かけて肥沃にしたり、何事も節度がある。
取り尽くさずに自然に帰したり増やしたり。

いつから、人は自然の恩恵を受け応える側からただ壊す側に回ったのだろう。
戦争もだが、ここ100年ほどは関係者だけで無く民も土地も地球も巻き込んで破壊する小回りの効かなさ。種の影響を大きく超えた道具で、逆に振り回されてるのにパワーゲームに固執して泥沼。
ネタとして書かれたSFの未来に本気で向かっていってない?

上書きと共存


西洋と東洋。
医学でも言われるが、アプローチが排除と共存。
考えて見たら植民地政策辺りからもうそうか
融合ではなく無にしてから染め上げる。遺恨を残すやり方は、ひっくり返されたくない必死さ。
混ざるのを嫌う感じの潔癖感は日本人にとっては不思議なものだ。
そういえば大陸の歴史も上書きだから王朝単位だと大して長くないんだよね。
陸続きの土地の人たちって焚書とか前の時代の痕跡を潰していくし、国を滅ぼしあう。侵略に常に怯えている。
ナチスの話や肌の色の差別にも感じたがそんなに相容れない、たくないものなのかな。

昔からそうだったんだろうか?

宗教の崇める対象


自然崇拝とか畏れとかさ
未知のものに対する畏怖や尊敬っていうのは多分世界各地に合った筈だし神話とかもそんな感じに似通った話があったりする。
神話の神様たちは人間ぽいし何だか憎めない可愛さもあるが、根底にはリスペクトがある。
それがある時からいきなり
差別主義的になる、極端で過激な選民思想になる。
これは何でか、を考えてたのだが
恐らくは…同じ人間を突然神とかにし始めたところからではないかな?
神様は超越した存在だから妬み嫉妬もなくただすごいと崇め奉り加護を求め感謝するし、似たような他の神様に対しても同じように尊敬するけど
人間になるとそうもいかないのかなと。
そもそもそれすら意図的にも感じるが。。

人では無いものを崇めていたときは、
まだそういった自然や大いなるよくわからぬものに対する敬意や感謝心もあったが、
いつのまにか全てコントロールできると勘違いし
実際技術で大きなことができるようになるほど
自分たちは選ばれてる・神と話せるから何しても良くて、また逆に選ばれてない(自分たちの神を知らない=かわいそうな人たち)ものには何をしても良いという勘違いが加速して、醜い争いが生じる。
今までは何かよくわからない力の前では無力でありだからこそ結束し或いはリスペクトしていたのが
よくわからない力すらコントロール出来ると勘違いして思い上がる。

人は万能ではない


実際には自然災害のまえには人は無力だし、日本人は昔からそれをよく知っていた。だから神様は沢山いて、そして単純な恩恵だけで無く、祟ったりもする恐ろしい面を含めて崇めていた。
島国だからこそ?これが続けられたのか。
大陸の人たちは、自然よりも他民族の脅威の方がリアリティあったのかも知れぬ。
だとして、自然破壊して良いことにはならないが。

少なくともそんな宗教観や行動が、世界のアイデンティティを決めていて
人が思うままに行動し続けること
それがグローバルスタンダードになっていると、本当地球の悲鳴しか聞こえないし、もう保たなくなる気がしてしまうのだ。

気づき始めた?

いま西洋的な物質世界・成果主義の限界から
目に見えないモノを含めた世界への回帰が始まっているようだ。マインドフルネスが持て囃されたり、スピリチュアルに惹かれる人が増え風の時代?になったとかいう人も出てきてる。
もともと人の目に映ったり聞こえたりしている音なんて世界の中のたった一部でしかないのに、それだけで見えないモノ含めて支配しようなんて試み自体が無謀であることは自明だ。

私達は生き物であるのだから、その摂理には抗えない。だからこそ、自らを育んでくれるこの大地に対してシンプルに感謝の心で生きていきたい。

誰が何を信仰しようとかまわないが、それを押し付けたり下に見たりする宗教観は受け入れかねるし此方としてもするつもりはない。また、政治に癒着するのも本義に悖る、ただ自然に
手を合わせる気持ちが出てそこにお社ができる
その気持ちが1番神様が喜ぶ形だと思うなあ。

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