自己肯定感が低くて〜と言う人ほど、自尊心高いんじゃないかという話

全世界に拠点を持つヴィパッサナー瞑想センターの瞑想コースに参加した際(参加時の話は過去記事参照)、「人は皆、自分のことがかわいくて仕方ない」というような話があった。
他人から悪口を言われて傷つくのは、それだけ自分をかわいく思っている証拠。
未来を憂いたり、病気が発症して落胆したりするのも全て、自分がかわいいから。
仮に「自分」という存在を無価値に近いものと感じていれば、悪口を言われたとしても不快に感じないし、自分の未来や身体もどうなったって構わないはず。

私はずっと自分に自信がなく、自己肯定感も低いと思ってた。
けどそれは、自分のことを誰かが認めてくれなかった、とか、ちょっとした失敗をした、とか、そういう過去の記憶をずっと覚えていたからだと思う。

どうして他の記憶は忘れるのにこのような記憶は忘れられなかったかというと、恨みや怒り、恥ずかしさといった感情と結びついていたから。要は、自尊心が傷ついたのだ。

そのような過去の記憶を自分の中で何度も反芻して、そうすることで自らを傷つけていた。そして「前にこんな風に言われたから、またダメだ」「自分はあれが出来なかったから、きっとこれもできない」と、どんどん拡大解釈もして、自分で自分の自信を失わせた。

今思えば、1人で作り上げた自分劇場の上で悲劇のヒロインぶっていただけ。

「あいつは私を傷つけたから、他の人間も私を傷つけるに違いない」と極端な思考に走った。結果、他人に心を開かない、人間不信の状態を自ら作り上げた。
無意識下に、自尊心を傷つけられた恨みや怒りが蓄積してるから、大体いつも不機嫌で、不平不満が多く、家族や恋人などの親しい人にはよく怒りをぶつけていた。

失敗が怖いからそもそも挑戦もしない、ということもよくあったけど、今思えば、失敗が怖かったのも高すぎる自尊心ゆえ。(私の自尊心が高くなったのは小さい頃に甘やかされすぎたからと予想する。もしくは持って生まれた性質か。)

矛盾するようだけど、顕在意識では「自分には価値がない」とか「自分はダメ人間だ」というようなことをよく考えていた。

仏教には「色即是空」という言葉がある。
自分の思考も感情も身体も、全ては「空」であって、何も無いのと同じ。この世の中に実体のあるものなどない、というような意味。
今「自分」と認識しているこの身体は分解すればただの分子の集合体。

そして「諸行無常」。
全てのものは移り変わって、何一つそのままであるものなどない。
人の心も、姿かたちも。
そのように移り変わっていくものを自分や誰かの力で止めることはできない。
自分自身の感情や身体もそれと同じで、思い通りにはならない。そのように思い通りにならないものを、どうして「自分のもの」などと言えようか。

「自分という存在は天からの預かり物だ(死んだら返却する)」という言葉もあるが、本当にその程度に考えて、「自分」や「自分のもの」への執着を手放せれば、病や死、未来などに対する様々な不安や恐れから解放される。

私も含め、多くの人は、「自分」に意識を向けすぎ。「自分の天職は何だろう」とか、「自分の運命の人はどこにいるんだろう」とか、「やりたいことがあるけど怪我や病気をしたらどうしよう」とか、いつも自分、自分。

自己肯定感が低いと感じるのも「自分」に意識が向いている証拠。「自己肯定感が低い『自分』はこれからどうしていったらいいのか」という風に、自分が、自分が、となっている。

そういう人は、たとえ(有り得ないけど)自己肯定感に関する問題が解決されたとしても、すぐに別の、自分に関する悩みが湧き出てくることになる。
だから枝葉の悩みをどうにかしようとするより、「自分に執着しない」、仏教的にいえば「無我(我を滅する)」に至る努力をするのが得策。

そんな私にある人がくれたアドバイスは、「他の人のためになることをする」ということ。
家族のために働いている人、育児や介護をしている人など、他の人のために尽力している人ほど、自分自身のことではあまり悩まないもの。
仏教用語では「利他」(他に利する=他人の利益になることをする)という。
利己心ではなく、利他の心を持って日々を過ごすことで、人生はもっともっと楽になる、と。

人間である以上、自分がかわいいのは仕方ない。だから(無理矢理にでも)意識を自分でなく他人に向けましょう、ということ。

人生は諸行無常で思い通りにはならない。ゆえに人生は "苦しくて当たり前" 。けれど考え方次第で苦しさを大きく和らげることができる。

今回は、知れてよかった考え方を共有したくてこの記事を書きました。


「無我」• 「利他」
ー我を滅し、人のためになることをするー



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