【生きづらさ解消のための実践法①】嫌悪を手放す&受け取らない

私が生きやすくなってきたのは、仏教の教えを少し齧ったからというところが大きい。
今回、表題のことを書くにあたって、始めにブッダに纏わる一つのエピソードを紹介したい。

悟りを開いたブッダは誰からも好かれていたのかというと、そうではない。彼を嫌う人も多くいた。

ある日、1人の男がブッダに向かって罵詈雑言を浴びせた。
その男に対してブッダは怒るでもなく、いつもの穏やかな表情でこう言った。
「あなたから贈られる言葉を私は受け取りません。どうぞそのままお持ち帰りください。」

そしてその男が立ち去ったあと、弟子たちに対してブッダは次のように語った。

「怒りで心を支配されたとき、心は黒く汚れます。すなわち、怒りを持って誰かを攻撃するときは、同時に自分自身を汚し、傷つけているのと同じことです。彼は、怒りを鎮める方法も知らず、自分自身を傷つけている、可哀想な人なのです。」

ブッダは怒りに対して怒りで応戦するのではなく、慈悲心をもってそのような者たちに接するよう、弟子たちに諭したのだ。

嫌悪を受け取らない

このブッダのエピソードのように、たとえ誰かから明らかな嫌悪を持って非難を受けても「それを受け取らない」という選択をすれば、自分の心の内を穏やかに保てる。

瞑想を極めて、集中力を高めれば、本当に「全てはじいて耳に入れない(意識を他のことに向ける)」ということも可能なのかもしれない。

けど今の私の場合、実際には大部分の言語を自動認識してしまって、瞬間的に嫌な気持ちになる。けどその場限り。早くて数分後には別のことに意識を切り替えられるようになってきた。

悪い言葉を言うたび、相手の心は汚れていっている。
「あんなに感情的に怒ったら自分が汚れていくだけなのに。可哀想な人。」と相手に対して慈悲の気持ちを持つ。

すると不思議なくらい、心が穏やかになっていく。

相手が嫌悪や怒りを向けてきたとき、自分は冷静でいられたなら、それは相手よりも自分の方が心のコントロール法を知っていて"上手"だということ。心の中で自分を褒めてあげたらいい。

嫌悪を手放す

「この人嫌いだ」と思うことは誰しもあると思う。けど、嫌悪の感情は百害あって一利なし。

嫌悪の感情をこちらが持っていると、そのことは必ず相手に伝わる。相手に自覚は無かったとしても「必ず」第六感で察知していて、こちらに対する態度が変わる。二度と会わないような人ならそれでも支障ないが、学校や職場の人間なら、のちのちの自分の生活上の居心地悪さに直結する。

そして前述のとおり、誰かに対する怒りや嫌悪など、負の感情に満たされることは、自分の心を汚している、ひいては自分を傷つけているのと同じ。だから、「自分を大切にする」意味でも、嫌悪の心は持たない方がいい。それに、誰かへの嫌悪や怒りの思考で時間を費やすことほど無駄なことはない。

嫌悪を手放すことは意外と簡単。
大切なのは、自分はいつでも色眼鏡をかけて物事を見ていると自覚すること。

どういうことかというと、例えば私は、高圧的な態度の人と出会うと瞬間的に嫌悪を抱く。けどそのときの私は、かつて高圧的だった父親とその人を無意識レベルで重ねている。高圧的な父からの言動で嫌な気持ちになった過去の記憶が、その人を見た時に呼び起こされている。

雨が嫌いな人もいれば、好きな人もいる。それはなぜかといえば、嫌いな人は雨に対して嫌な思い出が、好きな人は雨に対して良い思い出がある。

このように私たちは、誰に対しても何に対しても、いつでも「過去の記憶」というフィルター(色眼鏡)を通して見ている。
このことを知っていると、誰かに対して嫌悪を抱いたときに冷静になれる。「自分はあの人そのものを嫌いというわけじゃなく、自分の色眼鏡を通して見た結果、嫌な感情を感じているだけだ」とわかる。

誰かを嫌悪するときというのは、「あの人が自分を無視したから」とか、「あの人が自分にこんなことを言ったから」とか、そういう何かの事象があったからということが多いと思う。
けれど事象はあくまで事象であって、それをどう捉えるかは自分次第。

前述のブッダの話のように、「受け取らない」という選択ができる。

もっと言えば、「良いふうに意味づける」ということだってできる。

例えば誰かに無視されたとき、良い風に意味づければ「目が悪くて見えなかったのかも」とか「お腹が痛くてそれどころじゃなかったのかも」と捉えられる。
誰かにひどい言葉を言われたら「家で邪険に扱われていてストレスが溜まってるのかも」などと捉えればいい。

仏教では「すべては空である」という言葉もあるけど、本当に、世の中で起きていることは全て自分の意味づけ次第。
実態があるようで無い。

自分次第で、起こる事象は同じでも、悲劇にも喜劇にもなりうる。

今まで人生ハードモードだと感じていた人も、スイッチを一つ切り替えるだけで、明日にでもイージーモードにすることができる。

人間である以上、瞬間的に嫌悪の気持ちが沸いてしまうことは止められないのだと思う。けど、自分に嫌悪の気持ちが起こったという事実を自覚したときに上記のように考えて思考を上手く扱えれば、嫌悪を手放し、自分の心を穏やかに保てる。

そして、「あの人嫌いだ」と結論づけるのではなく、「あの人のあの言動や態度が、昔のあの過去を思い出させて嫌な気持ちになった」と、分析・分解して考える。
そうして「あの人のあの言動や態度では嫌な気持ちになったけど、あの人自身のことは別に嫌いでも好きでもない」
という風にフラットに思っておけば、穏やかな気持ちでいられるし、人間関係も良好な状態を維持しやすくなる。

「これは嫌い」とかもそうだし、「これは良い or 悪い」など、そういう価値判断はしない方が心穏やかに過ごせる。なぜなら、自分が色眼鏡を付けてるのと同じで、誰もがその人独自の色眼鏡を付けて世界を見ているから。それゆえ価値観は人それぞれで、どの価値観が正解・不正解ということもない。

だから、価値判断をしない方が、人間関係での軋轢が少なくて済む。「みんな違って、みんないい」というヤツだ。

尊敬する人に自分を否定されたと感じたら

自分が尊敬している人だったり、大切な人、一目置いている人に自分を非難されたり否定されたと感じたときは、結構喰らう。
ブッダのエピソードのように「何も知らない、可哀想な人」とは到底思えないから。

そんな時はどう捉えればいいか。
前述したとおり、世界は自分次第で悲劇にも喜劇にもなる。すべては自分の捉え方次第。

そんな時はこう考える。
「私の尊敬する人が、私が落ち込むようなことをするだろうか?」
そんなことするはずない。だから、その人の言葉で自分が落ち込んだとしたら、それはその人の意図した結果ではない。つまり、自分が勝手に、落ち込むような捉え方をしてしまっているということ。

あなたの尊敬する人なら、あなたが前を向けるような言葉をくれるはず。だから、非難された・否定された わけではなく、アドバイスをくれたのだ。怒られたわけでもなく、指導してくれたのだ。

相手が強い口調だったとしても、それはきっとアドバイスに熱が入り過ぎて、口調が強くなっているだけ。

強い口調で物を言われたときに「非難されてる」とか「否定されてる」と考える人は、それこそ、子供の頃に親から叱責を受けて嫌だったとか、そういう過去の記憶が呼び起こされてる可能性が高い。

私はまさにそれで、大きい声を出されると「私に怒ってる?」と今もたまにびくついてしまう。親から叱られて縮こまる、子供時代の私と同じ。誰しもそういうことはあると思う。過去を振り返って"気づく"ことで解消されていく。

まとまってない気がするけどひとまず終わり。読んでいてわかりにくい部分があったら教えてください。

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