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仕事が眠くて眠くて死にそうだったあの頃。

黒歴史の話を書きます。最初に一応断っておきますが、基本的にほとんど自分がいけないとほんとに思っていることを、思考実験として反対側面から書いてみているので、どこまでいっても、ごめんなさいと思ってます笑 新卒で前の会社に入って最初の一年間は本格的に使い物にならなかった人材だったと、今振り返ると恐ろしさとともに思う。気位ばかり高く動きは緩慢で、自分の興味と世界とをベン図の重なりを定義するかのように描き出す能力が著しく欠けていた。口をあけておいしいごはんが上司から運ばれてくるのを待つがごとし。

具体的には、あるメーカーを担当していて、国内の販売戦略を描く役割のチームにいたのだけど、まあ、本当につまらなかったわけです。面白がる能力が圧倒的に欠けていた。今だったらもうちょっと楽しんでやれるだろうなあと思う一方で、楽しむ能力がついた今わざわざあの仕事をやるかというと、たぶんやらないだろうなあ。あの仕事を受けなくても会社に貢献する方法を別のところから引っ張りこんできて、「こいつにこんなことやらせなくても、自分で仕事持ってきてるんだからいいだろ」と周りに言わせるように動けるくらいには社会に出てからの年月が経ったということかもしれない。

その時の上司のその仕事の面白がり方と徹底的にソリが合わなかったのも大きかった。「クライアントの〇〇部長と◇◇部長は、早慶の犬猿の仲なわけだよーわかるかー」とか、一度もクライアントとの打ち合わせに連れて行ってもらっていない僕に社内打合せで楽しそうに話す彼。誰だよその部長たち。不器用な人だったのだと思う。くそ眠かったし、実際寝てた。やる気のないやつだと思っただろう。ただ、一言でいうと、僕とその案件は、関係してなかったと思う。そして僕は、自分自身の人生と関係のないことに対して嘘の興味を無理やりにでももって取り組むということが、全くできない人間なのだと悟った。

冒頭の「今ならもっと楽しめる」というのは、言い換えれば「今ならもっと、あのクライアント企業と社会がどうつながっていて、自分自身とその社会がどうつながっているのか、見えているから、そのクライアントに自分がかかわる意味を見出すことができる」ということになる。お給料のためにとか、仕事だからとか、そういうことは一切自分の原動力にならないのだなと。因果な性格だなとつくづく思うけど、もうしょうがない。前にも書いたけど、自分は「人間」にしか究極的には興味がない。そこをコアに人間の営みとか、関係性とか、心理とか、好奇心とか、そういうことに興味があるし、それらを究明することはすなわち自分自身という人間がどうすればより幸せになれるのかの解像度をあげることにつながると思っている。そういう仕事ができるのが、人を動かすことを生業にする「企画業」の最大のいいところだと思う。という言語化が、1年目の僕にはできなかった。だからあの時の仕事を「政治業」だと思ってしまったんだと思う。残念なことである。

ただ、いまだに、クライアントに一度も連れて行かずに僕が慶應卒だという事実だけを取って早慶の仲の話をし、僕を睡魔のどん底に突き落としたその上司のアプローチは、完全に素っ頓狂だなとは感じる。「関係させる」うえで全然アサッテのアプローチだよなあと。まるで日本の政治とワイドショーと国民の関係性みたいなずれ方だなあと。政治家のよくない意味での「政治的」な側面あるいはマイナスの側面ばかり報じるメディアによって、すっかり政治が自分の生活とどうつながっているのか分からなくなっている、そんな感じ。政治は本当は、政治の話ではなく自分自身の話のはずなのにね。

伝える側も受け取る側も、自分の外側にある事柄と自分自身を、正しく楽しく関係づける能力は、ハッピーにまっとうに生きるうえで必須な能力だと、黒歴史を投票日に思い出して考えました。結局は、楽しく生きる能力って、よい関係づけをする能力なのだよね。

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