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円卓フェチと大人力

同僚に「飲むなら円卓がサイコー」という人間がいる。彼曰く、複数人で飲み会に行って、話しのかたまりがふた島以上に分裂しちゃうのがなんとも寂しくて嫌とのこと。せっかくみんなで行ってるんだから、みんなで話そうよーという理屈らしい。ただ僕の感覚では、ふた島以上に分かれて話す人は、そうやって話したいことが隣の人にあるわけで、たとえそれを円卓という装置でもって強制的に「ひとつの話題」にからめとったとしても、その人は「別のこと話したいなあ」とか「この話あんまりついていけないから疲れるなあ」とか、思いながら愛想笑いするに違いないと思ってしまうので、そっちのほうが関係性としては寂しいよなって思う。

中国では当然、ひとつの宴席では、みんなで真ん中に向かって話し、どんな話題についても全員で大きくリアクションをとって、盃を交わすのがスタンダードとのことで、ああやっぱりそうかと。何しろ、「何か複数人の人を、ある種の強制力でもって一つの話題に巻き取る場」そのものが自分は苦手でしょうがないので、中国人に生まれたら出世とか無理だったろうなあ・・・ 翻って先月、先々月と二回も行ったフィンランドは、そもそも「みんなでせーので一緒に食事をとりましょう」という概念自体がそこまでないらしく、自由に食べ始まって自由に食べ終わってという感じだった気がする。もちろんご家庭によるのだろうけど、何しろ「みんな各々、好きに過ごそう」というスタンスがベースに強力にあって、”自分が好きに過ごすことに、他人を前提として置かない”というのが、最高に水があってました。まあちょっと極端すぎるのも寂しいとは思いますが。

「自分がしたいようにする」ことと、「人にもその人がしたいようにさせてあげる」こととを、どちらも曲げずに両立できる人に、個人的には大人を感じる。「自分がしたいことに他人が登場してしまうとき」こそ、大人力が試されるっていうことなのかもしれない。

そんな円卓フェチな同僚とは、「一人旅とか寂しくて意味が分からない」「サウナって暇じゃん、入って何するの?」などなど、ことごとく向いているベクトルが違うのだけど、それが面白くて仲良しです。「違う=仲良くなれない」にどうもなってしまいがちな昨今。違いは、面白がらないとって思いながら、円卓はたまにはいいです。中華料理は大好きです。はい。

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