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[mahora 創刊前夜]

この記事は……
八燿堂の中の人、岡澤浩太郎が、基幹タイトル『mahora』を創刊するまでに至った経緯、八燿堂を立ち上げるきっかけになった物語を書いたものです。簡単にまとめるつもりが自分の生い立ちにまでさかのぼってしまいました。お時間あるときに……


幼少期~子どもの夢

子どもの頃の夢は2つあった。ひとつは「刑事になること」。当時、『太陽にほえろ!』が流行っていて、渡辺徹演じるラガー刑事がお気に入りだった。正義感はいまでも強いと感じるが、「僕も!」と幼心に思ったのだろう。けれど、エレベーターのドアに挟まれ続けるという、かの有名な殉職シーンを見て、その熱はきれいさっぱり冷めた。

もうひとつは「本屋になること」だった。その頃から本に惹かれていたのだろう。本が好きというより、本のある空間が好きだったのだと思う。本と言っても、読むのはマンガだった。時代はジャンプ最盛期。『ドラゴンボール』よりも『北斗の拳』に熱中した。孤高のマッチョイムズみたいなものにあこがれがあったのだろう。

その後はゲームに夢中になった。ドラクエとかFFとかのRPGが特に好きで、逆に指を早く細かく動かすようなマリオとかのアクションゲームはとても苦手だった。「下手くそでも時間をかければ誰でもそれなりに強くなる」という設計のほうが性に合っていた。

中学からは音楽に熱中した。3歳上の姉の影響が強かったのだと思う。中3でドラムを始めた。見様見真似の独学だったが、それなりに上手く叩けるほうだった。高校でメタルにハマった。そんな類のコピーバンドばかりやっていたから文化祭で演奏してもまったくモテなかったが、本人たちは楽しかった。いや、ただの空元気だったのかもしれない。

予備校時代~文章の師匠と出会う

高卒後の進路がチラつき始め、友達といくつかの大学の学園祭を見に行った。学園祭が一番楽しかった大学に行こうと決めた。だが、受験は全滅した。実家から近かった、埼玉県大宮市の河合塾で1年間浪人生活を送った。生まれて初めて味わった挫折だった。

志望校の入試のために、予備校で小論文の授業を受けた。物心ついてから成績はいいほうだったが小論文の初めての模試では30点しか取れず、現実を受け入れられずに憤慨した。「起承転結などどうでもいい」「試験官は『あなたが誰なのか』だけを見ている」と小論文の先生は言った。「お前は何者か」という問いを初めて突き付けられ、目からウロコが落ちた。この先生から文章の書き方を教わった。

最後の授業で書いた文章はいまでも覚えている。問題文は忘れたが、ドラムを叩いているときの心身の状態の描写から自分という存在を表現する意図で書いた。それまでの最高得点を取れたことよりも、これまでにないほど書ききったという充実感と、(評価というかたちだったが)それが誰かに届いたという実感が、うれしかった。

学生時代①井戸から出る

文学部に行きたかったが叶わず、違う学部で希望の大学に入れた。ここでも音楽に熱中する。音楽サークルに入り、バンド活動に明け暮れた。知らない音楽、初めて出会う人種、恋愛らしい恋愛、賃金労働、覚えた酒の味。世界が突然開けたことに戸惑ったが、楽しかった。同時に狭い世界で胡坐をかいていた自分が恥ずかしかった。

音楽はジャズに夢中になった。と言ってもトランペットにエフェクターをつないだ時期のマイルス・デイヴィスや、フリージャズに傾倒した時期のジョン・コルトレーンのような、「変わり目」にあるジャズが好きだった。何らかのパイオニアのような存在を追っていたのかもしれない。

希望の学部ではなかったから大学の勉強はつまらなかったが、教養課程にあった「映像文化論」という講義だけは面白かった。授業中はほとんど映画を流しっぱなしで、「チャップリンとヒトラーを両輪として捉える」とか、「映画はケツの穴で見ろ!」とか、カルチャーショックだった。メカスも王家衛もキアロスタミも何もかもここで教わった。

大学時代が一番本を読んだと思う。実家から大学までの移動時間がヒマだったからだ。古本で安く手に入った古典文学ばかり読んでいた記憶がある。並行して、雑誌も読んだ。当時は雑誌が最盛期を迎える少し前だったし、1990年代という時代はカルチャーがさかんだったから、雑誌自体に熱があった。「雑誌カルチャー」という言葉さえあった。特に愛読していたのが『STUDIO VOICE』だった。

穴の空くほど読んだ1997年8月号・特集「Greatest Records」

学生時代②初めての本づくり

何度かサークルの有志を集って同人誌をつくったことがある。音楽にかかわることなら何でもよいという方針だった。自分で原稿を書き、コラージュを貼り付けて遊んだりし、それなりにレイアウトを整えて、ほかの仲間の原稿と集めて綴じる。本をつくるサークルではなかったから反響は乏しかったが、バンド活動よりも充実感を味わったのは鮮明に覚えている。

サークルの仲間はみな留年し、自分だけが就職活動をすることになった。普通に就職するものだと思っていた。中学の頃、授業か何かで酸性雨の存在を知って以来、衝撃を引きずっていたから、当時、省に格上げされたばかりだった環境省を受験しようと考えた。だが、気づいたころにはとっくに応募が締め切られていた。

代わりに受けたのはいくつかの出版社だったが、箸にも棒にも掛からなかった。それから、音楽が大好きだったから音楽に関係する会社も受けた。楽器店、レコード会社、芸能事務所、FMラジオ局。このうち、縁あって東京のFMラジオ局への入社が決まった。あとで聞いたら内定者2名(うち辞退が1名)、応募者は1000名だったという。一生分の運を使い果たしたと思った。

就職~手厳しい人生勉強

ラジオ局ではいろいろな経験させてもらった。特に得難かったのは、マスコミの収支構造や金額の規模を肌で知れたことと、大物アーティストのようなメジャーなエンターテイメントが社会や人々や経済に及ぼす影響を味わえたことだった。アングラ気味のカルチャー好きで在野精神ばかりが旺盛だった自分には、いささか「矯正」めいた社会勉強だった。

いくつかの部署を渡り歩いたが、SP(セールスプロモーション)イベントの仕事が長かった。イベントと言っても営業系のもので、例えばA社が新車を販売する、宣伝のために番組を提供する、付帯展開として話題のカフェから番組を生中継する、そのカフェで車両が展示してある、番組内で「ぜひ見に来てください」と集客する、車両の脇にコンパニオンさんが立っていてフライヤーの類を配布するなど販促活動を行う、という類のものだ。私はカフェにあたる現場の仕切りを担当していた。

これが苦痛だった。例えば広告主にいい顔をしたい営業からは「車は3台展示できるようにしろ」、カフェからは「物理的に2台が限界」、宣伝臭さから局のブランディングを保ちたい番組からは「あくまで番組の公開放送がメインだから1台にしろ」と板挟み。全員のバランスを取って落とし込む交渉事が実際の仕事だった。

加えて、入社してから5年間、後輩が入らず、ずっと下っ端だったことも大きかった。下っ端は人格を全否定され人間扱いされない体育会系の企業体質だったから(いま思えば愛の鞭だったのだろう)、結果として方々からプレッシャーだけが襲いかかった。言葉の暴力は日常茶飯事だった。

唯一、心地よかったのは、撤収した現場の光景を目にしたときだった。何も問題なく終わらせることができた、という安堵感。新たな仕事で別のプレッシャーをかけられるまでの、一抹の猶予。外注先のイベント制作プロダクションの担当者とともに、撤収が終わった深夜、ゴミひとつなくがらんどうになった現場で打ち上げ代わりに缶コーヒーを飲みながら、同じような思いを交わし、同じように苦笑いした。

けれど、あるとき、これは異常だと思った。自分が頑張ったことが、この世からも人々の記憶からも跡形もなく消えてなくなった状態になって初めて、充実感を得られるなんて。俺の仕事は消すことなのか。俺の存在価値は消えてなくなることなのか。一度生じた違和感と疑問は日に日に渦を巻いて大きくなっていった。

社会人5年目~転職を模索

当時はインターネットが本格的に普及した最初の段階だった。並行してポッドキャストが最初のブームを迎えていた。総務省の加護のもとに置かれ、基本的には廃業の心配がない日本の電波系メディアも、多メディア化という初めての事態に戦き、自らの存在価値をあらためて問うていた。しかし天下り人事ばかりの旧態依然とした業界の体質に何も状況を変えられず、むしろ変えようともしないことに不満とやるせなさだけが積もった。

鬱憤を晴らすように、当時流行りだしていたブログを匿名で始めた。給料を注いで買い漁ったCDのレビューを主に書いた。レビューと言っても評論と呼べる代物ではなく、ただの感想文だったが、吐き出す場があったことは精神衛生上よいことだっただろう。さらに言えば、吐き出す手段として文章を選んだのは、書くことなら何らかを成し遂げられるという予備校時代の感覚が肚の奥底に残っていたからなのかもしれない。

ある朝、満員電車に揺られながら眠い目をこすっていると、吊り広告が目に入った。雑誌の広告だった。凝り固まった業界に比べて、同じ出版社なのに編集部ごとに広告を出している。実際、雑誌業界は最盛期を迎えていたが、それが挑戦的で生き生きとした様子に映り、ただただうらやましかった。そして、自分は本が好きだったことを思い出した。

真剣に転職を考えはじめた。転職先は雑誌の編集部にこだわった。「営業の現場はそれなりに経験させてもらったから、今度はつくる現場に行きたい」と安直に考えたのだと思う。真っ先に思い浮かんだのが、学生時代から好きだった『STUDIO VOICE』の編集部だった。残念ながら募集はなかった。けれども、同じ出版社のほかの編集部の応募があった。『Tokion』という雑誌だった。一度会社に潜り込んでしまえば異動することだってあるかもしれない、可能性がゼロではないなら賭けてみたい、と心を決めた。

辞表を提出すると驚かれたが、会社自体は何も変わらなかった。すぐに新しい担当があてがわれ、何事もなかったかのように業務がまわりだしていた。取引先のいくつかからは惜別のメッセージが送られてきたが、大多数は新担当に群がり、自分の目の前からはほとんど誰もいなくなった。

華やかな会社だったゆえに、個人よりも肩書のほうがモノを言ったのだろうか。そばに残ってくれた人こそ財産であることは間違いないが、勤務した丸5年という歳月で手にした現実は、残酷だった。

黄金時代①Tokion編集部

編集部の中途採用と言えば編集経験者を対象とした募集ばかりだったが、当時の『Tokion』は未経験者でもよしとされていた。大幅なリニューアル計画のために、業界内外から新鮮な人材を募りたかったのだろう。縁あって入社を果たした私は、しかし、リニューアルの内容を聞いて愕然とする。サブカルチャー誌から、男性ファッション誌にするというのだ。

幻の『Tokion』リニューアル創刊号

さすがにこれは就職詐欺だと訴えた。しかし、編集長から謝罪はあったものの、会社の方針は変わらなかった。迂闊な選択をしたと自分を呪った。けれども、せっかく前職を退職したのだから、どんな環境でも3年は続けようと心に誓った。

編集という職種自体はとても楽しかった。もちろん新鮮さもあったが、自分の積み上げた努力が記事というかたちで誌面に現れることに充実感を覚えた。同時に、奥が深い仕事だとも思った。手取り足取り教えてくれるような職場ではなかったからすべて独学だったが、試行錯誤自体が面白かった。始めてすぐ、編集という仕事の持つ魔力に取りつかれていた。

肝心の『Tokion』はと言えば、リニューアルの効果も虚しくセールスが振るわず、編集部員が何度か入れ替わり、ついには編集長も退任した。新しい編集長として代わりに来たのが、オフィスの同じフロアで隣の島だった『STUDIO VOICE』編集部で、長らく音楽を担当していたMさんだった。

以降、『Tokion』は飛躍した。新しいメディアだからこそできる、ダイナミックな誌面構成。期待感と高揚感にあふれていた。ある種、何でもありの自由な風土のなかで、反対にクオリティ面では厳しい目にさらされ、磨かれた。キャプションの書き方、写真家の選択ひとつで、こうも変わるのかと痛感する毎日。Mさんは具体的なノウハウを授けてくれたわけではないが、背中を見て盗みながら必死に食らいついていた。

けれども現実は厳しかった。Mさん体制になった成果が実るよりも前に会社が我慢しきれず、『Tokion』は休刊することになった。休刊とは事実上の廃刊のことだ。充実した日々が突然強制終了され途方に暮れた私に、異動先として会社から提示されたのは、『STUDIO VOICE』編集部だった。

黄金時代②STUDIO VOICE編集部

夢にまで見た念願の『STUDIO VOICE』編集部、だったはずだが、胸中では気乗りしていなかった。媒体そのものが形づくられる渦中にあった『Tokion』の躍動さに比べると、『STUDIO VOICE』は自らが積み上げた歴史から「この雑誌はかくあるべし」と型が決まっているようで、不自由さのほうが目立つと感じていたからだった。

加えて、異動当初は担当を持たされなかった。映画、写真、建築など、各ジャンルにはすでに編集担当が振り分けられており、自分がそれをやりたければ実力で押しのけるしかなかった。しかし相手は天才肌の手練れ揃い。勝ち目なんてまったくなかった。

電話番と新たなジャンルの開拓に勤しむ毎日はつらかったが、やがてひとつ目の転機が訪れる。アートを担当していた先輩編集者が退社することになったのだ。編集長から「引き継いでくれ」と言われて二つ返事で快諾した。『STUDIO VOICE』にとって、アートは音楽と映画に並ぶアイデンティティのひとつだ、という言葉に背筋が伸びた。やっと居場所を見つけられたと思った。

しかし、私はほとんどと言っていいほどアートに関心がなかった。何も知らなかったと言っていい。けれども、与えられたチャンスは絶対に逃したくなかった。必死に勉強した。本を読み漁り、人に会いまくった。

当時の現代アートはChim↑Pomを筆頭に、美術の専門知識や技術の乏しい「門外漢」による表現がもてはやされていた。『限界芸術論』の再燃もこの頃だった。だから、美大卒でも何でもない門外漢の自分が、かの『STUDIO VOICE』の新アート担当になったことは、業界から歓迎された面も少なくなかった。そんな時代の幸運を背景に、「アート担当」というある種守られた立場を得て、誌面づくりに勤しんだ。

ふたつ目の転機は、編集長の交代だ。当時のリーマンショックが広告の減収というかたちで雑誌を直撃し、責任を取らされる格好で異動させられたのだ。代わりに編集長になったのは、『Tokion』から『STUDIO VOICE』に出戻りになっていたMさんだった。そしてやはり、ここから『STUDIO VOICE』は飛躍することになる。

あっけない幕切れ

新編集長になったMさんから「今度の特集、やってくれ」と言われて心臓が凍り付いたことは、いまでも覚えている。前編集長時代に一度特集を任されたことがあったが、販売的にも誌面的にも大失敗していたからだった。今度は失敗できない、したくない、なんとしてでも成功させたい。必死の編集作業が始まった。

特集のテーマは与えられていた。アートとはまったく関係なく、旅行記、旅にまつわる本の特集だった(あとで知ったことだが「編集部のなかで一番本を読んでそうだから」というのが人選の理由だったそうだ)。本の特集だから、本のカタログがメインになるだろう。ならばジャンル分けが一番の肝になる。ビジュアルはどう見せるか。インタビューは入れるとして、せっかくなら誰かに旅行記を書きおろしてもらおう……ギリギリまで構成を練り、一気に原稿を発注、取材と撮影が立て込んだ。

Mさんには都度報告していた。デザイナーの松本弦人さんとも対話を重ねた。失敗が怖かったからだ。何度も指摘が入った。試行錯誤が続いた。そのうちに、「編集とはこうやってやるのか」と、なんとなく、本当になんとなくだが、つかめてきたように思う。

表紙案も定まり、特集タイトルも「本と旅する」に決まった。最後の追い込みで金曜から事務所に泊まり込んだ。2泊3日、ほぼ寝ずにぶっ通して、迎えた月曜日、校了日の朝。「全員集まれ」とめずらしく招集がかかった。会議室には編集長以下、全編集部員と、経営の役員が座る。役員が告げる。「『STUDIO VOICE』を休刊する」。旅行記の特集の、その次の号で終わるという。真っ白になった。

その後、編集長から説明があった。リーマンショックの煽りで広告収入が落ちた、会社は「売れ線の雑誌」へとリニューアルを迫った、しかしMさんは断固として抵抗したという。「妙な本になるよりは、潔く散るほうが、この雑誌らしくていいと思った」と。編集部も営業部も、誰も異論を唱えなかった。

「本と旅する」特集号が無事刊行されても、だから喜べなかった。茫漠としたまま最終号の編集作業へと一気に雪崩れ込んだ。悔いがないように燃え尽きると決めた。こうなったら何日でも徹夜していい、自分の体などどうなっても構わないと思えた。が、実際はショックのほうが大きく、地に足が付かないまま時間が過ぎて行ったように思う。

2009年8月号。思い出深すぎて言葉にならない

祭りのあと~模索の始まり

役員からは「次の異動先はない」と告げられていた。退職勧告だ。会社都合のほうがありがたかったから、編集部全員が喜んで退社することにした。

最終号の刊行後、当時原宿にあった松本弦人さんの事務所の屋上で神宮花火を見ながら飲んで、空が明るくなるまで名残惜しさに浸った。あのときは楽しかった、どうして休刊になったのか、みんなこれからどうするんだ、そんな会話があったと思う。「これで終わりか」。誰かがつぶやいた。8月の太陽は朝から暑かった。

信じていたものが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちたような感覚だった。雑誌の性格上、まだ世間に知られる前の、若くて、個性的で、尖った、ある種反体制的なカルチャーを誌面に取り上げていた。多メディア化する時流にあって、そういうメディアこそが生き残るのだ、正しい方針だ、と信じていた。けれども休刊という事実を突きつけられたのだ。「そういうことではない」と一喝されたように感じた。

ならば、どうしたらいいのか。内容だけでなく仕様も間違っていたのだろうか。判型、ページ数、あるいは刊行ペース、価格帯、雑誌でなければならなかったのか、広告収入を前提とした収益構造でいいのか、書店で売るものなのか、そもそも販売するのがいいのか、その場合の流通は、出版社や編集部というあり方は相応しいのか、もっと言えば本でなければならないのか……。出版物やメディアに対する、ゼロからの問い直しだった。

いつかは自分の媒体を持ちたい、と漠然と考えた。いくつかのアイデアが思い浮かんで、少しばかり試したこともある。けれども決定打には至らなかった。ただ、既存のシステムには限界があることは確かだろうと思った。この確信は強烈に残った。だから、のちに東日本大震災や福島の原発事故が起こったときも、「やっぱりな」と思った。ただし、自分にとっての答えはまだわからなかった。それはいまもなお、考え続けている。

再就職失敗~仕方なくフリーランスへ

編集部在籍時代に名だたるライターや編集者とご一緒して、その仕事ぶりにただただ敬服していたから、自分はフリーランスになれるタマではないと思っていた。だから迷いなく再就職活動を始めた。ところがリーマンショックの余波が予想以上に大きく、企業は極端に採用を絞っていた。第二新卒としては30代前半という年齢も微妙だったし、さらに言えば出版不況も始まっていた。思うように仕事先が見つからず、失業手当で毎晩のように飲み歩いた。

そのうちに、『STUDIO VOICE』時代のつながりから仕事をまわしてもらえるようになった。現代アートの、主にライター業だった。作家へのインタビューが多かった。拾ってもらえたことや、糊口をしのげたことはありがたかったが、「俺はライターではない、編集者だ」という自意識ゆえに葛藤した。

それでも食っていけるほどではなく、いよいよ金に困って、知り合いがいたチームラボで週の半分だけ働かせてもらった。確か「広報ライター」という肩書の、プレスリリースを書いたり代表の猪子君が受けた取材記事の校正をしたりする仕事だった。

経済的にはとても助かったが、いつ頃からか会社全体が「文字を使わない表現」を目指し始めていた。絵文字や映像を多用することでグローバルなコミュニケーションを活性化させる戦略だったのだろう。文字の仕事で入社した自分の居場所がなくなったと感じた。

週の残りの半分は、仕方なく始めたフリーランス編集者としての仕事に費やした。自分の場合はライター業では食えないと判断し、書籍の編集に挑戦した。表紙から奥付まで丸ごと一冊編集する作業は新鮮で、そのぶん鍛えられた。

何冊か手掛けることになったが、なかでも林央子さんの『拡張するファッション』が幸運にも話題になった。『美術手帖』誌の仕事がきっかけで、各地の芸術祭の公式ガイドブックをいくつか編集することにもなった。服部みれいさんと知り合い、『murmur magazine for men』の創刊号から編集にかかわることになった。

フリーランス一発目の大仕事、林央子『拡張するファッション』


『北アルプス国際芸術祭2017 公式ガイドブック』


『murmur magazine for men』創刊号

「あなたと一緒にやりたい」という仕事の依頼が増えた。うれしかった。たとえ金にならなくても、この先どうなるかわからなくても、自分を必要としてくれる人たちと仕事をしたいと思えた。フリーランスとして生きていく決意をした。

けれど、主戦場だった現代アートやサブカルチャーへの興味は、日に日に薄れていった。創作に込められた作家性が主張しすぎているように感じられたのだ。SNSが一般化し、誰でも発信することが可能になった時代背景もあっただろう。人類総メディア化、アウトプットだらけの混沌に包まれて、「エゴにはもう耐えられない」と、目と耳を塞ぐようになった。

大きな出会い①原始の美、パーマカルチャー

極端な反動なのか、あるいは「より確かなもの」に触れたかったのか、『STUDIO VOICE』時代は見向きもしなかった、仏像や土器に惹かれていった。明治、江戸、安土桃山、鎌倉……と時代を遡り、最後は縄文までたどり着いた。そして気づいた、自分は政治や宗教や経済のような「システム」が完成する前に生まれた人間の創作に興味があるのだ、と。それは、「原始の美」とでも言えそうなものたちだった。

「原始の美」が暫定的なキーワードになって以降、さまざまな本を読み漁るなかで、特に衝撃を受けたものが2冊ある。ひとつは、柳田國男の本だ。いろいろ読んだからうろ覚えだが、確か『日本の祭』だったと思う。

こんなことが書いてあった。年に一度、夏の時期に、ご先祖様の霊が降りてくる。どこに降りたらいいか迷わないように、村の裏山の一番高い山の、一番高い木のてっぺんに白い布をぶら下げて、それを目印にしてもらおう……その布がめぐりめぐって、神主が用いる御幣になった、というのだ。

これだ、と直感した。人間の創作とはそもそも、エゴを超えたところにあるのではないか。個人を超え、他人や社会と、もっと言えば動物や社会と、あるいは精霊や神と「つながるためのツール」であり、言ってみれば「異界の口」のようなものなのではないか。人間を主体とした世界ではなく、人間が一部である世界における、大いなるものへと開いた扉のようなもの……。

「人間が一部である世界」とは生態系のあり方そのものである、と教えてくれたのは、パーマカルチャーだった。『murmur magazine for men』を通じてソーヤー海君と出会い、彼がパーマカルチャーを学んだ、カナダとの国境に近いアメリカ北西部のオーカス島を、彼主催のツアーで訪れたのだ。

秋だった。収穫の季節で、「ブロックス」という名のサイトのいたるところにある果樹に実がなっていた。大豊作だという。住み込みの研修生たちから「食べないと腐ってしまうから、お願いだからもらってくれ」と、ものすごい量を差し出された。とてつもなく美味しかった。「働かないと食べていけない」なんて嘘だと思えた。正確に言えば、「賃金労働」と「暮らすこと」の間にある乖離に気づいた。

パーマカルチャーは、トマトとバジルを一緒に植えると互いが刺激しあってよく育つように、互いに生かし合う関係性を組み合わせる発想法だ。こうした組み合わせは自然界に無数にある。イチジクとミント、果樹と蜜源植物とミツバチ、斜面の下に溜まった水を太陽エネルギーで上に運んで重力を活かして敷地全体に放水する……。さらに、ある区域に住む得意分野の違う人々を組み合わせることで新しい何かが生まれるなど、コミュニティや社会の設計にも応用できる。

大きな出会い②宮沢賢治『農民芸術概論』

農という、土に触れる生活から発展したパーマカルチャーの考え方が大きな刺激になった。出版活動もこうしたあり方にすることはできないだろうかと、考え始めた。そんな矢先に出会ったのが、2冊目の本、宮沢賢治『農民芸術概論』だった。

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

宮沢賢治の『農民芸術概論』を一読して、雷に打たれた心地がした。上に挙げたのは、魂に響いたフレーズのひとつだ。土とともに生きる農民というあり方そのものが、銀河系をも包む芸術なのだ、という高らかな宣言。土と銀河という超ミクロと超マクロが同時に存在する、あるいは完全に合致するスケール感に圧倒された。現代人の視野の狭さを思った。エゴなどひと欠片もない。あるのは、ただ、「全」であり、「一」だった。

ひとつの閃きがあった。「全」であり「一」であることこそが、「原始の藝術」なのではないか。それまで読み漁った本や出合った創作が、一本に貫かれたような感覚が訪れた。やむにやまれぬ衝動のまま、文章を書き始めた。誰に見せるためでもなかった。ただ書きたかった。吐き出したかった。

全派芸術~八燿堂誕生

幾晩かの推敲ののち、「“全派”芸術(仮)のための覚書 あるいは全体性(ホリスティックネス)に向かうための美という扉」と題された文章を脱稿した。創作、あるいは芸術とは、全体性を回復するための手段である、という内容になった。いま思えば、祈りのような思いを込めていたのかもしれない。

 ただ、文章を書ききったあと、これをどうしたらいいのか、さっぱり見当がつかなかった。信頼できる先輩たちに読んでもらい、面白がってもらえたが、「大学の先生になったら?」など、送られたアドバイスにはピンと来なかった。雑誌時代の名残で文中では多くの芸術家に言及しているから、彼らの作品を集めた展示をしてはどうかと思い立った。しかし、何人かのキュレーターに見せたものの、反応は芳しくなかった。

途方に暮れた時間は、あるとき、不意に終わりを告げた。そうだ、俺は編集者だった、だったらこれを本にしたらいいじゃないか……。答えはひどく単純で、原点にあった。何度も企画の推敲を重ね、「“全派”芸術」は『mahora』という名前の本になった。創刊号の「編集後記に代えて」は、「“全派”芸術」のアップデートだ。

太古の神話や秘跡、あるいは日々の暮らしや創作から、いつの時代も変わらない、本質的な美のあり方を探る。……夢物語のようだが、いま問うことが未来につながると直感した。200年後、自分も子どもも孫も誰もいなくなったあとの未来、『mahora』も生態系の一部として霧散してなくなっているだろう。願わくば、未来に住む人たちがその残滓を感じて、自然や宇宙、あるいはその人自身の内奥にある、美しいきらめきとつながるきっかけになることができたら。

八燿堂は、この本を世に送り出すために開始した。2018年7月のことだった。



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