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答えのない学問に向き合える贅沢

1月末に、2年ぶりに大学のキャンパスに戻ってきた。

2年生の春学期はイタリアに交換留学をしていて、1年間休学をして、3年生の秋学期は東京からオンラインを受けていたから、気がついたらプリンストン大学の学生のはずなのに、キャンパスを離れて2年間が経ってしまっていた。

1、2年生のときは、毎日、自分に不必要なストレスをかけて過ごしていたので、色々な感情を懐かしく思い出しながら、キャンパスを歩くのは、なんだか感慨深かった。


自分の部屋があって、時間を自由に使えて、勉強に集中できる恵まれた環境が整っていて…

久しぶりに再会できた友人と散歩に行ったり、ご飯を食べたりして、最高にワクワクした気持ちで授業が始まるまでの、自室での自主隔離期間を過ごしていたのが、授業1週目に急に大きな不安に取り込まれてしまって、何も手に付かない状態になってしまった。


今学期は美術史の授業を3つを履修していて、卒論の予行演習のような3年生論文を書いているのだけど、

授業の予習のために本を読んでも、何だかよく分からないことばかりだし、

3年生論文の相談で教授と面談をしても、たくさん時間を費やしているはずなのに、全然前に進めていないことに向き合わないといけなくて、ただただ自分の中にドロドロした気持ちが溜まっていった。


大学2年間を費やして勉強していた経済学を手放すほどの強い思いを持って、美術史が勉強したい!って思ったはずなのに、どうして楽しく取り組めないんだろう…

課題として読む美術史の論文を読んでも、ワクワクよりもモヤモヤが強いのはなんでだろう…

好きなテーマを選んで研究しているはずの論文に前向きに取り組めないのはなんでだろう…

休学中の気の迷いで、思いきり過ぎた決断をしてしまったのだろうか…

自分への疑いが湧いてきて、どんどん不安が大きくなって、そもそもこんなことを勉強して、何になるっていうんだろうか。と半分投げやりな気持ちになってしまった。


思い返せば、小学生の時から、算数と理科は答えが一つに決まるから好きで、国語は答えが一つじゃないから、好きじゃない、と思ってきた。

大学に入っても、どちらかというと理系に偏った勉強をしていて、人間の行動について考える学問をしたい、って思った時にも、一番数学の要素が強いと感じた経済学を専攻することに決めた。

それに、小さい時から、あてのない散歩とか、ただ窓の外を眺めるだけのドライブとか、学校行事とか、目的のない時間を心から楽しむことができなかった。

今のこれって何の時間??って疑問を感じてしまって、何か「生産性のある」ことをやってないことに焦ったり、罪悪感を感じたりしてきた。


そんな価値観の中で育ってきたから、答えがない上に、世の中にどう役に立つのかもわからない美術史を勉強するというのは、自分が思っていた以上に大きな変化だった。

歴史という大きな流れを捉えつつも、芸術家一人ひとりの生涯の細部にも気を配る。そして、答えを出すのではなくて、色々な視点から理解を深めていく、というのは、あまりにも慣れない作業で、ものすごく戸惑っていたのだと思う。


自分が興味を惹かれる美術について勉強をしたからって、それが何になるのかは今の自分には分からないし、

ついつい正解を求めてしまう癖のある私にとって、正解のない美術史という学問を勉強することは、なんだか果てしなく遠い道のりのように感じるけれど、

以前よりも、あてのない散歩を楽しめるようになってきたように、目の前の美術作品一つ一つ、芸術家一人一人に思いを巡らせることを心から楽しめる日がくると思うと、新しい自分に会うことができそうで、わくわくする。

目的地を決めることも、そこに辿り着くことも急かされずに、ただただ自分なりの感性で散歩をすることが許されている大学生活なんて、本当に贅沢だと思う。

こんなにも恵まれた大学生活を送ることができていることには、感謝してもしきれないけれど、この大学生活を通して、自分が考えたこと、感じたことが、この先より多くの人の人生の豊かさに繋がったら嬉しいな、と思う。





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