キューバで思い出した豊かさ
キューバから戻り、かなり時間が経ってしまった…😅
2019年12月初旬にキューバを訪れてから、あっという間に2ヶ月。
もっと前の出来事のような気がしているが、まだ2ヶ月。
帰ってからすぐの記事にも書いたのだが、良い意味でのカオスが印象的だったキューバ。
新しいものと古いもの。
綺麗なものと綺麗ではないもの。
穏やかさと険しさ。
豊かさと貧しさ。
…
あらゆるものが混在しているカオスが楽しすぎて、1週間ずっと五感がフル稼働していた。そして、キューバの虜になってしまった。
たった1週間の滞在で、しかもホテルに泊まっていた私があれこれ語れる程、キューバを知ることができたとは思っていない。
表層部しか見ていないけれど、それでも自由主義の世の中に身を置く私がキューバを訪れて感じることは多々あった。
例えば、甘いスイカ🍉に慣れているとキューバの味のしないスイカや、パイナップルを食した時に「味が無い」となる。でも、キューバの人にとってはそれはきっと、当たり前のこと。場合によっては、スイカが手に入るだけでもラッキーという日もあるかもしれない。
同様に、スーパーの棚にはトイレットペーパー🧻が1種類しかなかった時、1種類しか無い!と思ってしまった自分が居た。でも、ちょっと前のキューバでは、トイレットペーパーが手に入らない時期があったと言う。1種類しかなくても、あるだけまだ良いのかもしれない。
「在る」が当たり前だと、「無い」にことに意識が向いき、「あれが無い」「これが足りない」と嘆いてしまう。
ついつい比較をしてしまうのが人間なのだけれど、「在る」に目を向けられているならば、もっともっと自分が豊かであることが見えるはず。
限られた物資しかなく、政府が割り当てられた家に住み、配給される食糧だけでは足らないことも多いと言うキューバの人々。
物乞いする人もごく偶に見かけたし、身に着けるものも消して良いものと言う印象はなかったが、それでも道端では子供たちは歓声を上げて遊び、ダンスホールのような場所には笑顔で踊る大人たちの姿があった。
路上で卓上ゲームをする大人たちや、おしゃべりしている人々も多かった。
何は無くとも、楽しむ時は楽しむ。
在るもので、楽しむ。
キューバの人たちがそんなことを思って暮らしているかどうかはわからない。
けれど、目の前に繰り広げられる非日常を前にして、そんなことを思った。
そう言う私もカナダで暮らしていて、日本の食材が割となんでも手に入るようになったのは最近のことだ。だから、「無いものは作るか、代用品を探すか、潔く諦める」と言うことに慣れていたし、無いはずのものを手に入れると文字通り「有難い」と感謝した。
それなのに、便利になればなる程、選択肢が増えれば増える程、「有難い」はずなのに「無い」を嘆く。自由であるが故に迷い、ものが豊富であるが故に「無い」ものにフォーカスし、嘆く。
迷う程の自由やものが「在る」ことに感謝こそすれ、「無い」ものをわざわざ見つけ出し、嘆いてしまう。
自分に対してもそうだ。
才能が無い、知識が無い、経験が無い…と「無い」にフォーカスしがち…
同じような決意を何度もしているように思うが、再び「在る」にフォーカスする視点を持つことを心掛けていこう、とキューバで改めて思った。
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