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芸術は表現から自由になれるのか

これからお話するのは、美術系の学校に入ると美学のガイダンスで聴くような話。美大卒でもない私ですが、他学部の芸術学の講義に潜り込んで(一応先生の許可は得て、です)聴いた内容を元に、備忘録的に残そうと思い、徒然に書き始めた訳です。

これを書いている時点で、「あいちトリエンナーレ2019」「表現の不自由展」を巡る騒動は小康状態です。これを書こうと思ったきっかけの一つには違いありませんが、是非の議論に加わる気はありません。あくまでも芸術/アートの根本的な問題について書こうとしています。

それがタイトルに掲げた疑問です。

「芸術は表現から自由になれるのか」

言い換えれば、表現しない芸術はあり得るのか、何の為に創作するのか、そして、美は何処にあるのかという問題に繋がっていきます。

美しいものなら芸術作品でなくても沢山あります。
例えば自然の風景 ー 夜明け間近の空のグラデーション、形を変えながら流れていく雲、全天を埋め尽くす星々の瞬き、波に踊る陽の光。それらは芸術でしょうか。直感的に「芸術的な美しさはあるけど、芸術そのものではないな」と考えるでしょう。それは誰かが誰かに向けて「意図を持って」創ったものではないからです。

花や、蝶、鳥の羽や鳴き声の美しさはどうでしょうか。これらの美しさには意味があります。虫を誘い花粉を運ばせる、異性を惹き付ける、といった目的があるのです。それでも花や蝶、鳥自体は芸術とは呼び難いですね。しかし、花を生ける、蝶や鳥を写真に撮るなど、人の手が関わって、人に向けて発信されれば、それらの美しさは芸術となりうるのです。

芸術を表すartという言葉は、人工を意味するartificialと語源を同じくするもので、何かしらの人の手が関わって創られたものであることが言葉に内包されています。つまり自然を表すnaturalとは正反対の意味を持っているのです。

「意図を持って」と括弧書きにしましたが、実はby designという英語訳を意識しています。まさに意図を持って形や色を工夫することを「デザイン」と言いますね。
衣服をデザインする、自動車をデザインする、建物をデザインする。これらの中には芸術の範疇に重なるものもありますが、建築や被服の一義的な目的は実用、つまり役に立つことにあります。それ以外に人の心を動かす何かを表現しようとして初めて、そこに芸術が宿ります。

美しい景色は、それを見る人がいて初めて美しいのです(量子力学みたいですね)。美しい景色を見て心が動く。それを誰かに伝え、共有するため、写真に撮ったり、絵に描いたりする。それを見た人の心も動く。このように考えると、芸術は自ずと表現することから逃れられないのです。

ここで厄介なのが「表現の自由」は芸術だけの言葉ではない」ことです。言論、報道、思想、宗教といった分野に於いても自由は重要なキーワードですし、風刺画、宗教芸術、メディアアートといったジャンルが存在することから解るように、それらが隔絶して存在するのでなく、互いに重なりあっています。

「表現の不自由展」に於いても、芸術監督を務めたのが社会学者である津田大介氏、補助金不交付を決めた文化庁の長官が自身が芸術家である宮田亮平氏。それに様々な立場・観点から声をあげる人々。各々の考える表現の自由・不自由は全く異なる座標上にあるように感じます。文化、思想、言論など、軸が一つ違えば噛み合うことはないでしょう。

話を戻しましょう。
芸術は送り手と受け手の間に、作品なり、行動なりを介して行われるコミュニケーションです。すると美は作品そのものではなく、人に属するものであると言えるでしょう。国文学者の故安良岡康作先生が、「コミュニケーションという言葉には良い訳語があてられていないが、本当の意味は通じあいということ」と仰っていたことを思い出しました。
芸術が、人を繋ぎ、通じあうものであるよう祈りつつ、筆(スマホですが)を置くことにします。

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