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祖父の人生(祖母に出会うまで編)

私は祖父のことが大好きである
祖父の性格にはそりゃあ難もあるけれど、それも含めて愛してしまっている。

祖父は、よく学ぶ人だ。工夫を知る人だ。話し好きな人だ。サービス精神が旺盛な人だ。せっかちな人だ。
そんな祖父とずっと連れ添ってきた祖母は、沢山苦労して生きてきたひとだ、と言う。

祖父は御歳86歳。
北海道の田舎に生まれ、たしか末っ子だった。
貧しい家には大抵働き手が必要で、案の定祖父も小さい頃から働かされていた。

祖父の昔話は大抵この働き始めた頃から始まる。
終戦直後の子どもであったはずだが、祖父はいまでも戦争の話はしない。
たまに夏頃の戦争のスペシャル番組が流れる事があり、その空母だとか戦闘機について何かと言う事かあるけれど、自分の身の回りに起こったことについて話している記憶は、少なくとも私にはない。

最近よく語るのはリンゴの袋掛けの話だ。
リンゴ農家に朝早くからトラックの荷台にのせられ、日没まで木に生っているリンゴの一つ一つに傷がつかないよう袋掛けの仕事をしていたのだという。

恐らくこれが祖父にとっての初仕事であった。
働いている人達は大抵小学校の高学年から上。
ひょいひょいと袋をかけていく上級生の中で、まだ小さかった祖父は背の高さが足りず、リンゴまで手が届かずに悔しい思いもあったそうだ。

なんせ出来高制の給与形式である。
休まず、効率よく、袋をかけていく他ない。
祖父は黙々と木に登って他の人の手の届かない箇所のリンゴに次々と袋をかけることで、それなりの給与を貰っていたらしい。
なんせ良い稼ぎの時には、父親の月額給与さえ超えていたという。
祖父は工夫上手で、負けん気が強く努力家である。

祖父は今で言うDlYがとても上手な人で、というか、何でも器用にこなす人で、クリエイティブ能力に溢れている。
今でも、老朽化した家のドアの立て付けが悪い、ソファのスプリングが壊れた、などとなると、なにも調べずに解体し、構造を理解し、道具やらなんやらをホームセンターで買ってきてサッサと直してしまう人だ。

けれども本人曰く、幾つか出来ないことがあってその1つが習字だ。小学生の夏休みの宿題として課された書写はどうしても嫌だったらしい。
そこで祖父は悪知恵をはたらせて、字の上手かった兄に代筆してもらったそうだ。それがなんと優秀賞を受賞。学校の先生にほめられて、あれだけ面目なかったことはない、と祖父は良く私に話して聞かせる。
まぁ、私から見ると祖父はもう既に亡くなったお兄さんよりよっぽど達筆になったように感じているが。

その反動か、祖父は私の字をとても褒める。別に天賦の才などではなく、ただ小さい頃から習字を習わせてもらった賜物でしかないのだけど。習字教室の帰りに祖父にその出来を見せると、上手い上手いと何度も言い、特にコンクールに出すものでもない、ただの孫が気まぐれで書いたペラペラの半紙をクリアファイルに入れては壁に貼ってくれた。

その後祖父の人生は、口減らしの名目で、他人の家の奉公にでることになる。
小学校高学年頃のことだろうか。苗字も変わり、名目上、その家の人間になったのだ。多くは語らないが、その家ではかなり厳しく当たられたようだ。
朝から休む間もなく働かせられ、働く代わりに夜間学校にいかせてやる、というのがその家の言い分だった。祖父は朝から働きに働き、夜は学校に行って学んだ。

夜間学校に登校する時間は、ちょうど通常学校の部活の時間だったらしい。
ある時、中学部の野球顧問の先生に選手の数が足りないから参加してほしいと言われ、それが祖父と野球との出会いになった。
祖父はまだ小学生だったが、中学生でも小柄なやつがいるから大丈夫だ、バレない、という当時の緩さで、祖父は小学生ながら、中学部の野球部員になる。
私としては、祖父の優秀さや器用さがその先生の耳にも入っていたからこそのスカウトだったと思うのだが、祖父はそんなことを一切言わない。

そうして、祖父は朝から奉公し、野球部に参加し、夜間学校で勉強する日々が続いた。
ちなみに祖父は今でも還暦野球に参加している。
こう考えると、祖父にとって野球との出会いは、厳しい奉公と必死の勉強の間に生まれた同年代達との青春が詰まっているのだろう。その時の喜びが、いまの還暦野球への参加として続いているのかもしれない。もう還暦という年はとうに過ぎているのだけど。

一方、祖父が野球を始めたことは奉公先の人にとって面白くない話だったようだ。祖父は何でも器用にこなすため、それなりに部活でも成績を上げていたらしいが、一度も褒めてはくれなかったそうだ。この辺りに昔の人間の気難しさというか、貰って来た子供への厳しさを、私は勝手に感じてしまう。

そんな厳しい家で、蒸発されてなるものかと電車賃に届くような小銭すらろくに貰えず閉塞的に過ごしていた日々に、祖父はある日、見切りを付ける。文字通り、着の身着のまま家出をしたのである。

目的地は特になかったと言ってもいいのかもしれない。祖父は家族もおらず、住む場所もなく、当然ツテなんかもないまま、とにかく汽車に乗り込み、働き口を探し回った。当時であってもどこから来たかも分からない、とにかく丁稚奉公から逃げ出してきた青年が職業を探すのは厳しいことなど分かっていたはずだ。
それでも、祖父は家を出た。奉公先に見切りをつけたのだろう。

捨てる神あれば拾う神あり、とはよく言う。汽車を降り、路頭に迷っていた祖父は、とんでもなく貫禄のある「普通のババアじゃないな(祖父曰く)」という見た目の老婆に出会った。迷える青年の事情を聞き、「あそこの家なら助けてくれるから行ってきな」と祖父を送り出した。

そうして、その家を訪ねた祖父は、その家の保証人になってもらい、仕事を見つけ、会社の寮に入った。

そこで運命の人、祖母に会うのは、また次の話。

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