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待つこと。斧を研ぎ、木を切ること。

 今日はミスドに行った。朝起きたらのどが痛くて、風邪をひいた感じがする。プールはいかないことにした。カロリーばかり摂っていて大丈夫かと思うが、ひとまず大学時代に買ったスーツのスカートは2着とも難なく履けたのでいいことにする。今度対面の面接があるので、サイズアウトしていたらどうしようかと思った。今の自分は手足がむちむちしていて本当にかわいいと思う。

 待つ、というのは難しい。大学時代に教育を学んでいたが、教育者の一番の敵は「待つこと」であると思った。子どもがまごつきながら取り組んでいることを先回りせずにじっと待てるか。それはコスパだとかタイパだとかの言葉が使われる今日には本当に難しい。忙しい毎日で、微笑みながら立ち止まり、子どもの健闘ぶりを応援しながら待つ、というのは正直中々現実的ではないと思う。

 うつ病の回復プロセスもまた、待つことの連続である。働けない自分、動けない自分、理想とかけ離れた自分を受け入れ、回復を信じて待つことができるか。うつ病に特効薬が無い限り、自分が本来持つ回復力に頼るしかない。バネが縮むからこそ跳ねるように、ボールが沈んで浮き上がるように。弾性やら浮力やらのように、私が浮き上がるのをじっと待つ。

 私は元来せっかちな人間である。何をするのも早い。やると決めたらガッと集中し、終わらせてからじっくり休む。計画せずに着手するため、途中で「あ、これをやった方が効率的だったか」と気づく。説明書を読まないで取り掛かるせいで途中で行き詰まり、解体して基礎の基礎からやり直すことが私の人生には数えきれないほどある。

 以前ネットで見かけたリンカーンの名言を思い出した。「もし木を切り倒すのに6時間与えられたら、私は最初の4時間を斧を研ぐのに費やすだろう」。私とは真逆の生き方である。しかし、だからこそ私は、いま、このような生き方を習得するフェーズにいるのかもしれない。

 20代前半というキャリア形成に重要な期間を私はうつ病に奪われてしまった。翻弄され、履歴書にこれといった成功体験やわかりやすいエピソードは無い。しかし、人生の早いタイミングで「自分」という乗り物とつくづく対峙できたとも思う。肉体を魂の乗り物だと捉えると、私のうつ病は乗り物に搭載された製造ミスである。その欠陥の修繕のために、私は私の乗り物を客観視する時間をたくさん取ることになった。
他の同世代よりも乗り物を観察し、辛抱強く向き合った。結果、その欠陥は修繕できるものではなく、一生搭載され続ける脆弱な部分だとわかった。

これは、「斧を研ぐ時間」だった。目に見える成果は無く、手にしたものはない。しかし、後から振り返ったとき、私に必要な時間だったと思えるのかもしれないとぼんやり思う。
いつか木を切るとき、周りの人より早くきれいに木を切れるかもしれない。その分、苦戦する誰かの分まで木を切ってあげられるかもしれない。

 私はいままで、あまりにも斧を研がずに生きてきてしまった。だからこそ、20代前半という時間に「研ぐとき」「待つとき」が用意されていたのかもしれない。カトリック的に言うと、神様は必要な時に必要なものを用意してくださる、という感じかな。


追伸:最近仏教を勉強している。ブッダからすると、人生の苦難を乗り越えようとすること自体ナンセンスなんだろうな。おそらく、木は切らなくていいし、木という存在を受け入れなさい、と言う気がする。この考えも、悪くないよね。

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