生きてるとルールガン無視の人にボコボコにされたりする
真夜中の戯言である。
どうしても寝れなくて、暗闇のリビングにパソコンを取りに行って、自室に戻った。ベットの上に座って、足の上にパソコンを乗せて、起動する。
パソコンの熱が太ももに移っていく。
ベットでパソコンを開くなんて行儀が悪い。姿勢も悪い。
でも、今はそれがいい。
私はわたしを今大事にできない。
私はわたしを愛してる。
心底大事にしている。
私はわたしを、能力の有無ではなく、1つの存在として認めている。
それでもたまに、上手にバランスをとっていた何かが崩れて、理由もなく悲しくて虚しくて、私がわたしを大事にする理由を、そんなのわかりきったことなのに一から並べたくなる。そうしないと、不安で。
お盆は私にとっての鬼門である。
父方の祖母の家へ行き、誰かへの恨みつらみや悪口を正義の顔をして語る祖母の話に付き合う。
他人の悪口ならともかく、祖母は身内の、もっと言えば私の父や母の悪口を私の前で話す。私がそこそこなの通る学校に通っているから、祖母は私がお気に入りである。
今年のお盆も、私の知らない誰か、もう亡くなった親戚、私の家族の悪口を、懇切丁寧に、私の名前を呼び、私の顔をじっと見ながら話した。
もう歳なのに、誰かを恨んで、自分の人生を必要以上に勝ち誇って、他人をけなして。そんな必要がどこにあるのか。
祖母は食事の前、私にブドウをくれた。
珍しいなと思いつつ、断る理由もないので皮をむいて食べようとすると
「それ、酸っぱいでしょ?私、そんなの食べれないから!」
と言われた。孫を喜ばせようとかそんなんじゃなく、ただ処分に困ってただけだったんだなと思った。そんなことないよ、美味しいよと言って食べた。
祖母は別れ際、私にお金を渡した。
こんな人からもらったお金をどう使えばいいのか、私はいつもわからない。
祖母が私にくれるものは、大抵祖母が処分に困っているものばかりだ。
お金。お金くらいは、孫への純粋な良心でくれているのだろうか。
そう、良心。私は祖母にもう愛情を期待していないのだなと、いま気づいた。
理想的な関係が築けていたなら、私は祖母に良心ではなく愛情を望んでいただろうに。
孫が祖母に良心を望むなんて、聞きなじみがないなと今ちょっと笑ってしまった。
そのお金に込められた意味を考えるのも嫌になって、笑顔で「ありがとう」と言いつつも鞄のポケットにしまった。
私が大事にしてずっと使っている財布には入れなかった。汚される気がして。
他人に必要以上の期待をしない。
それはいつか私の中で他人を評価する軸になって、クリアする人を「まあまあ」、脱落した人を「がっかり」なんて一方的に判断する傲慢な人間になりそうで怖いのだ。
だからこそ、私がわたしのことを誰よりも認めて、愛して、こんなよくわからない人の声なんて聞こえないくらいに強くなりたい。
私がわたしを愛することで、私自身を守りたい。
でも、そんなうまくいくことだけじゃない。
こちらに耳を傾けず一方的に攻撃してくる人は、無礼で卑劣で、相手に気持ちがあることを忘れている人ばかりだ。
私がわたしを守ろうにも、相手がマナー違反をしすぎて、まるで試合が成り立たない。
例えるなら平気で手を使うサッカーとか審判のいない試合。
審判が止めてもパンチを繰り出し続けるボクシング。
ここで私が純粋なルールを順守して戦っても歯が立たない。
もうわたしはへろへろのよれよれだよ。立っていられないよ。
「君は相手の卑怯さに負けず、ルールを守ってえらい」
なんて後で褒められても、その時の無力感はなくならないように思う。
でも、それでも、私はそんなルールを無視した試合はしたくない。
ルール度外視でボコボコに殴られても、
その人たちと同じプレースタイルは取りたくない。
私がわたしを愛して、心のメーターを貯めて、また試合をしたくなったらリングに上がる。
世の中の全員がルールをガン無視するわけじゃないし。
純粋な、ルールを順守した試合は楽しい。さわやかな汗。青春…
とにかく、私はわたしを愛する。
ルールガン無視の無礼な人たちに心を削られても、私は同じレベルには落ちないよ。
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