ぼくが心に決めたこと。|ひとりよがり出版No.002-cocochi-ココチ-
この記事は、ひとりよがり出版が発行する雑誌「cocochi」のデジタル版として公開したものです。ひとりよがり出版については記事の最後に詳しくお話ししていますのでそちらをご一読ください。
記事自体は無料でお読みいただけます。
ひとりよがり出版No.002-cocochi
2019年、大晦日。
年の瀬を感じさせない気温と天気だった。
ぼくは久しぶりに、何もない近所を
散歩してみることにした。
カメラを片手に。
一年が終わる。
そしてまた一年が始まる。
別に何かが変わるわけではないけれど、
この天気に任せて、
次の一年への期待や不安を
ぽつりぽつりとつぶやきたい。
そう思っていたら、
年は明け、
一年の6分の1が終わってしまった。
が、気にせずにまとめるとしよう。
家の近所の河川敷。
最近舗装されたけれど、
前あった道端の花々は
なくなってしまった。
去年はどんな一年だっただろう。
ぼくはいろいろな環境が変わった一年だった。
4年間通った大学が終わり、
社会人としてスタートを切った。
副業もやってみたり、
思えばいろいろな「新しいこと」を
潜り抜けたような気がする。
その中でぼくは常に
「自分の在り方」について
思いを巡らせていた。
考え、悩んだ。
何をやっても自分の通る道が
影っているような気がしたこともあった。
そして影の道を抜け、
光の指す道に出られたと感じたのも、
去年の出来事だった。
誰かの家の玄関先。年越しを彩る。
自分にできることはなんだろう。
自分に「しか」できないことはなんだろう。
ぼくよりも仕事ができるひとは
いくらでもいるし
自分の無力さに打ちひしがれた。
自分を褒めることができなかった。
たくさんの実をならした木に目がいった。
この木はなんのために実をつけ
ここになっているのだろう。
別にそんなことに
特段変わった理由がないことはわかる。
けれど、ここでぼくが
「きれいだな」と思って
シャッターを切ったということ、
そんな関係性を、
ぼくもこの木のように
作ってみたいと思った。
早すぎて梅かと思った、桜の花。
午後三時、低い日差しが
早咲きの桜を照らす。
ぼくは生き急いでいたのかもしれない。
漠然と「誰か」に負けるのが嫌で
「誰か」に認めてもらいたかった。
そういった時は大抵息苦しい。
本当は自分自身を
認めてあげるべきなのに。
自分はどう在りたいのか。
そして今の自分はどう在るのか。
ぼくがそれに
気づくことができたきっかけは
この「ひとりよがり出版」だった。
隣の家のフェンスから
顔を出す花々。
光に向かって
疑うことなくまっすぐ
伸びている。
さっきの赤い実がなる木も
この花々も、思うがままに伸びている。
「ひとりよがり出版」も、
思うがままに、自分の視点で、自分の範疇で
今どう在るかをのびのびと話す
ツールになった。
ぼくは自分自身から出る声を
信じたかったんだなと
やっと気づいた。
川の主だと言わんばかりに
真ん中を堂々と泳ぐカモ。
「ひとりよがり出版」で見えた
「どう在りたいか」ということ。
それは、
属人的で、その人ならではのような
発想や感情、言葉にならない複雑な感覚を
大切に濃縮したり編み込んだりが
できる人で在りたいということだった。
再現性の低いもの、非合理なもの。
ひと由来の「心地」に
向き合える人で在りたい。
「心地」の感じ方は人それぞれ違う。
ぼくが意図した「心地」が
人によって全く別の
「心地」をうむこともある。
そんな余地や、不均一性を
受け入れて赦しあうような
そんなデザインができたらと思う。
うまそうな柑橘だ。
たまに自分が
木に一つだけなった果実のように
ひとりぽっちな気になる。
誰にも見向きもされず、
鳥につつかれるのを
待つだけのような。
できれば川の真ん中を泳ぐ
カモのように
一人であっても堂々と
泳いでいきたいものだ。
2月、個人事業主で開業した。
自分で責任を持ちながら
自分を信じながら。
さあ
今年はどんな年にしよう。
たまるごみ。
ここで年を越すのだろうか。
大晦日にたまっていたごみ。
別にただのごみだけれど、
なんだか一年分のごみのように感じた。
要らないものを捨てよう。
今年の大晦日には
今ある漠然とした不安も
しっかり分別して
ごみ捨て場に置いていけたら。
一部はリサイクルされて、
新しい「期待」として
またぼくのところに
戻ってきたりして。
寄り添うアンテナ。
ぼくが心に決めたこと。
それは
自分と他人を信じて受け入れ、
人に寄り添える人になるということ。
そしてその輪が広がるような
「心地」をつくるということ。
ここにきもちをつめこんで、
ここちをデザインしよう。
屋号のcocochiに込めた思いは
それを体現している。
不安はある。
同じくらい、期待がある。
ぼくと一緒に、
誰かの「心地」をつくろう。
終わりに - ひとりよがり出版を始めた経緯
初めまして。ひとりよがり出版の神岡真拓(かみおかまひろ)と申します。僕は、人が好きなのに人見知りなグラフィックデザイナーです。グラフィックデザイナーをやっていると、世の中の「紙離れ」「デジタル移行」の流れを嫌でも感じます。案件もSNSやWEBなどデジタル領域が本当に増えています。でもそれって、言うなれば紙モノの希少性が上がるということ。その中で最近は「現代においての紙モノとの付き合い方」を考えるようになりました。
一方、そのデジタルの世界では、媒体の中の話になりますがSNSなどをみてみると不要なマウンティングや自己顕示、どこかで誰かが誰かを叩き合っている、そんな印象を受けます。これは僕が思うだけなのかもしれないですが、デジタルという世界には「距離」がないと思うのです。ないというよりもわからないといったほうが正確かもしれません。人がぽろっと呟いたことも、別な誰かに言っていることも、自分のすぐそばで聞こえている。だから無意識に聞き入ってしまっていて、自分のことのように解釈してしまう、そんな感覚なのではないでしょうか。
僕はそんな世界にほんの少しだけ怖くなってしまいました。顔色を伺いながら、話したり、耳を傾けたり。「〇〇すべきだ!」「あっちが悪い!」などの強すぎる意見に「距離」がわからない状態では心がいくらあっても足りません。そりゃあ、ひとの意見を受け入れることも、意見することも大切です。だけど、もっと譲れないところや、大事にしていることを「ひとりよがり」に「柔らかく」表明してもいいんじゃないのかな。
そんな思いと、前述の「紙モノとの付き合い方」、さらにはグラフィックデザイナーという境遇が折り重なって、出版企画を持つことにしました。紙モノは、モノとして存在する以上、物理的に人は距離感を認識できます。また「取っておいて、見返す」や「保管する」という行為にみて取れるように、能動的に自分から距離を作ることができます。その紙モノの中で、メディア性と個人的に内容の切り出し方、編集のやりがいを感じるものが雑誌でした。
特に通しのタイトル・テーマは決めないつもりでいます。1タイトル1冊。ひとりよがり出版は、ニュートラルな、パブリックとプライベートを行き来するようなものでありたいです。
「ひとりよがり出版」とは
ひとりよがり【独り善がり】《名ノナ》
自分だけで、よいと思い込み、他の人の考えを聞こうとしないこと。
独善(的
「ひとりよがり」は決してネガティブな意味だけではなく、ひととひとが共鳴し合う一つの鍵であるというポリシーの元、ひととその周りを、ひとりよがりな視点で雑誌にまとめる出版所です。
決まったタイトルや定期刊行を作らず、写真、文章、デザインまで、一つ一つをひとりで丁寧に雑誌に編み込んでいます。
今回は自分が興味のある人をひとりよがりな視点で紹介する雑誌となりましたが、今後様々なテーマや題材で制作していきますのでよろしければご支援のほどよろしくお願いします。
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