小さな旅、さようならモーツァルト

「そろそろ行きましょう」
 彼女は年季の入ったセイコーの腕時計に目をやると、わずかに目を瞑ってそう言った。長いまつ毛が物憂げな柔らかさで上下した。古い教会の祈りのように。それはとても美しかった。
 僕は静かに頷いて、底に残ったカフェラテをグッと飲み込む。コップの内側にできたカフェラテの薄い跡の重なりが、楽譜の線のように伸びている。線は全部で五つあり、長い時間話こんだことを仄かに示唆していた。
 モーツァルトのピアノソナタが流れている。毛並みのいい何匹かの子鹿が小気味よく駆けぬけていくような、優しい音色だ。

 彼女は木椅子の上に綺麗に畳まれた淡い黄絹のマフラーを手に取った。そして、自分の内部に注意を向け、集中したような眼差しになった。静かに、瞳は虚なまま、コートを羽織り、後ろ髪を右手で掬い、マフラーを首に巻いた。それから右手につけた腕時計を左手で調整し、僕の方を見て、ゆっくりと微笑んだ。
 洞窟の中のような限定された沈黙が、一瞬僕らを包み込む。それは暗く、果てしない。遥か先にわずかな光が見えるのだけれど、到達することは決してない。そういう種類の沈黙だった。彼女の絶妙な動作の一連が僕に古い記憶を思い起こさせた。悲しく、やるせない気持ちにさせた。でもそれは誰のせいでもない。彼女のせいでも、僕のせいでもなかった。
「行きましょう」
 僕は感情が取り返しのつかないところに行ってしまう前にそう言った。

 会計を済ませ、店内を後にする時ピアノは止まっていた。聞こえるのは従業員が皿を洗う音だけだった。最後に少しだけでもモーツァルトの音を聞きたかったが、それは叶わなかった。階段を降りる途中、花瓶の中に白いアネモネの花が何本がいけられているのが見えた。

 外には雪が降っていた。

 音符のような粒の大きい雪のそれぞれが、街並みに沿って立つ電灯の光に重なり、揺れていた。身の引き締まるような風がしきりに吹き、冷たかった。
 僕は肩をすくめ、外套のポケットに手をつっこんだ。それから彼女を見つめ、何かを言おうとした。何かを口にするべきだった。
 しかし、そこにはうまく語りきれない何かがあった。僕はそれをなんとか言い表そうとしたが、だめだった。

「さようなら、モーツァルト」

 微かな震えが届かないうちに、彼女は白い言葉を残して、暗闇の中へと姿を消してゆく。
 さようなら、モーツァルト。
 その響きが終わらないうちに。

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