ブルーベリーパイ

 その食事会の最後にはブルーベリーパイが出た。焼き目のついた生地に包まれたブルーベリーは、古い記憶のように美しい。
 素敵な匂いがした。
 ゆっくりと、半ば機械的に、パイを口元へと運んだ。フォークは適度に重く、指先は微かに震えている。わずかな甘みと優しい酸味。ガラス製の灰皿の中で細長い煙草がじっと燃えている。僕は無心でフォークを動かした。吸殻のフィルターには口紅が避け難くまとわりついていて、それらは埋めてすぐに掘り起こされた兵士の死体のように見えた。

 頬を右手の人差し指と中指で撫でると微かに濡れているのが分かった。
 それで、僕は泣いているのだと気がついた。
 理由は分からなかった。
 しかし、時にそういうことは起こる。訳もなく、ただ何とも言えない感情が身体の底から湧き上がり、広がっていく。それらは人知れず、全て僕の内側で起こっている。にわかには信じがたいことだけど。
「砂糖とミルクはいらない?」
 キッチンで彼女の声がした。マグカップの底には、わずかに冷たいコーヒーが残っている。
 僕は頷く。
 熱くて苦いコーヒーが飲みたい。
 潰れたクロワッサンのような絵が、キッチンとリビングを区切る壁に飾ってある。彼女の息子が描いたそれは丁寧に額装されている。どこかの美術館でそのまま展示できそうだ。
 不自然なへこみ。
 歪んだ曲線。
 それらは僕に何を示唆するのだろう。
 と、僕は考える。熱いコーヒーが注がれるまで、僕は無意味な思考を続ける。
 あらゆるものに意味を求めること。
 あらゆるものが自分に対して説明を施してくれる『何か』でないといけない。
 そんな思考ほど醜く愚かなものはない。
 分かっている。
 分かっている。
 分かっている。

 彼女はブランケットを膝元に広げ、細やかなほこりを立ち上がらせた。淡い照明の中で緩やかに旋回するほこり。僕の膝に彼女の膝が触れる。甘いオーデコロンの香り。ブルーベリーパイに負けず劣らず刺激的でほのかに甘い。一口、彼女は僕の食べかけのブルーベリーパイを頬張る。感想は言わない。彼女が作ったのだから。その味は彼女自身、当然承知しているのだと言わんばかりの表情だ。
 どこから持ってきたのだろう。膝の上に抱えた黒い箱を彼女はゆっくりと開ける。鍵穴のようなものが取り付けられていたが、鍵はかかっていなかった。やがて、中に入っているものを慣れた手つきで取り出した。アルミホイルを広げ、巻紙を取り出し、何やら不思議な物体を詰め込んで、舌でペロリとやって、太いタバコのようなものを完成させた。小さな手が重そうなライターの火をつける。パチッ。脳の端を小突かれるような小気味いい音。太いタバコは優秀な使徒のようにその火を受け止める。彼女の口元にそれが差し込まれる。唇は鋭い三日月のような影を帯びている。
 タバコには人間の何かしらの機能を必要以上に覚醒させる成分が入っているだろう。そういう匂いがした。
 彼女は咥えたものをしばらく楽しんで、やがて僕の人差し指と中指の間に押し込んだ。僕が頬を拭った手。涙はすでに乾いていた。
「はじめてですか?」
 僕は頷いた。
「我慢できなくなるまで煙を吐き出たらいけませんからね」彼女はにっこり意地悪そうに微笑み、そう言った。
 モクモクと濃密な煙、淹れたてのコーヒーの湯気、ブルーベリーパイの香り、あらゆるものが渾然一体となって僕の目の前を占領していた。それらの景色は(なぜだろう)僕に昨夜見たナチスドイツの映画のあるシーンを思い出させた。
 建築学校を出たユダヤ人の女性が上官に抗議する。「この土台じゃ建物は、完成した時に崩壊してしまいます。やりなおす必要があります」「そうか」「はい、ですから上官。やりなおしを!」上官は部下に声をかける。「おい、そこの君。あの女を殺しておけ。ユダヤ人に指図されるなどあってはならんことだ」女性は手頃な場所に移動させられ、言いつけ通り射殺された。打ち手はなんの躊躇もなく引き金を引いた。銃弾が頭を貫き、彼女は反動でゴム毬みたいにバウンドした。赤い血が雪が降り積もった地面を染める。じんわりと、彼女が抱いていた希望や夢や計画が、音も立てず広がり、消えていく。
 人間の思いはこんなにもあっさり消えてしまうものなのだろうか?
 上官は女を殺した部下にこう言い残す。
「あの女が言った通りに建物を作り直せ」


 咥えたものを思いっきり吸い込んでみた。肺の中に何かが広がっていく。でもそれが何なのか、認識する前に、別の何かが広がってくる。波のように、僕にはそれらを識別する時間が与えられていない。しばらくして、彼女は僕の指からそれを抜き取り再び吸い込んだ。そして僕の口に戻し、吸い込ませた。それを何回か繰り返した。

「もっとパイが食べたくなったら言ってくださいね」
「おうけい」と僕は応えた。
「疲れていない?疲れたら眠ってもいいです。ブランケットもあるし、私のベッドを使ってもいい」
「おうけい、まだ大丈夫」と僕は言った。
 彼女は咥えているものを灰皿で潰した。僕は彼女の横顔をチラリとみた。ディケンズに描写を依頼したらいくつもの修飾語が浮かんでくるのだろう、そういう顔をしていた。
「テーブルの上に何が置いてあるか見極めがつかないな」
「性行為をすると文章が浮かんでくる。あれはよかった。たくさん浮かんできた。でも、あれはダメだった」
「どうして亀の甲羅がこんなところにあるんだ?」
「そう言うのはなしって言っただろ?」
 僕は誰と喋っているんだろう?ここはどこだ?頭の中で、底の深いお椀に入ったゼリーのような塊が徐々に融解していく感覚があった。それはずっと昔に体験した何かの経験にすごく似ていた。僕はそれを必死に思い出そうとした。でも無駄だった。波が押し寄せるのが早すぎて、そちら側には絶対に到達できないのだ。
「ベートーヴェンのピアノソナタを聴きながら、うたた寝をしている人間がいたんだ。だから俺はそいつの右耳を鋭い鋏で切り落としてやった」
「あぁ」
「フィンセント・ファン・ゴッホは、自分の左耳の一部をカミソリで切り取り、売春婦に手渡したと言われているだろ?そういうことさ」

 彼女が僕の下唇を噛む。歯型が付くくらい強く。すぐに血が流れ始める。ネバネバとした濃厚な血が舌の表面に広がってゆく。鈍い鉄の味。彼女はそれすらも求める。舌がさしこまれて、沢山の唾液が加わる。血が吸われる。吐き出される。ナチスドイツの映画。無意味に奪われた命。赤く染まる地面。死体のバウンド。
「あの女が言った通りに建物を作り直せ」
 頬が濡れている。
 何かが伝っている。
 誰かが泣いている。
 誰かが涙を流している。
 いいや、違う。
 彼らが感じた悲しみと、ささやかな喜びのことを思って僕自身が泣いているのだ。

 目の前に暗く果てしない穴が広がっている。
 それは、あらゆる意味合いによって繋がっていくための秘密の穴のように見える。
 この先に進めば僕は何を目撃することになるんだろう。
 そう自問するよりも早く、僕は穴の中に飲み込まれていく。



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