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真犯人(無理ゲー社会/橘玲)

先日読んだこちら↓と同じ著者による新書。
(この人、キャッチーなタイトルを付けるのが上手で感心させられる…)

格差社会を「無理ゲー」だと感じる若者が増えている。
まず前提として、格差の何が問題かというと、「不平等」ではなく「不公平」だ。この定義の違いは以下。

「公平」とは、子どもたちが全員同じスタートラインに立ち、同時に走り始めることだ。しかし足の速さにはちがいがあるので、順位がついて結果は「平等」にはならない。
それに対して、足の遅い子どもを前から、速い子どもを後ろからスタートさせて全員が同時にゴールすれば結果は「平等」になるが、「公平」ではなくなる。
ここからわかるように、能力(足の速さ)に差がある場合、「公平」と
「平等」は原理的に両立しない。(略)ひとびとが理不尽だと思うのは「不平等」ではなく「不公平」なのだ。


「競争の条件が公平ではないこと(人種差別等)」と、「競争の結果は受け入れるとしても、自分が参加させられるのは理不尽と考える(絶対に勝てない試合を続けさせられる)」人が声を上げ始めたことで、無理ゲー社会という概念は生まれた。

この2つをさらに分解していくと、

・「ゆたかさ」がもたらした「自分らしく生きる」という呪い
・いい大学、いい会社に入れば人生安泰というレールが壊れた今、生徒にモチベーションを与えるための「夢をもて」というハラスメント
・テクノロジーがもたらした過剰で希薄な人間関係
・多様性が受け入れられ、貴族制から能力主義へ移行したことにより自分が本当に劣等であるという理由で、自分の地位が低いのだと認めなければならなくなった

等々の理由になる。

※あまりにも悲観的で読んでいてしんどくなってくるが、1点だけ、「遺伝ガチャ」についてはポジティブな記述があった。アメリカで裕福な地区へ引っ越しを伴う経済援助を受けた子どものグループが、20代半ばに達したときの収入が平均3分の1高くなり、貧しい地域に住む割合やシングルマザーになる確率も低かったというもの。
遺伝率は良い方向でも悪い方向でも「極端」になるほど高くなる。並外れた才能も、世界を震撼させる凶悪犯罪も遺伝的な要因が大きいが、平均付近のほとんどの人にとっては遺伝が半分、育ちが半分ということ。だからある程度は、自分の手で運命を切り開いていける。

また、こうして散々論じられる「格差」や「貧困」の影には、真犯人がいる。それは、来る「超高齢化社会」だ。

若者たちの不安を解消し、夢や希望をもてるようにするには高齢者の既得権を減らさなければならない。だが今では、70歳以上の団塊の世代がもっとも大きな影響力をもつ有権者で、テレビや新聞などのマスメディアを支える視聴者・読者でもある。日本社会にとって高齢者批判は最大のタブーなので、現実を直視せずにこの理不尽な事態を説明するには何か別の「犯人」が必要だ。このようにして「格差」や「貧困」あるいは「資本主義」への批判が声高に語られるのだ。

ここ、さらりと書かれていたが、なるほど確かに。
格差を描く作品は数あれど、高齢化社会を真っ向から斬った作品はパッと思い当たらないことに気づいた。

最後に、『上級国民/下級国民』ではシンギュラリティが描かれていた未来予想について。

本書では、テクノロジーの高度化によって地球上すべての人に「ゆたかさ」が分配されれば、より多くの貨幣を獲得しようとする「資本主義経済」から、より多くの評判を獲得しようとする「評判経済」へと変わるという結論で締められていた。
お金は分配できるが、評判を分配することはできない。
「社会的・経済的に成功し、評判と性愛を獲得する」という困難なゲーム(無理ゲー)を、たった一人で攻略しなければならない。それは、才能のある者にとってはユートピア、そうでない者にとってはディストピアだ。


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