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変化しない恋人たち(清く貧しく美しく/石田衣良)

石田衣良の書く女性が好きという男性に会ったことがある。いやいや勘弁してくれよと思った。女性読者なら共感してくれると思うが、石田衣良の恋愛小説に出てくる女性は「美人でスタイル抜群だけど謙虚でおしとやか、でも実は性に対して積極的」といった男の妄想を具現化したようなキャラクターが多く、いやそんな女いねぇわと毎回思ってしまうのだ。それでも新作が出るとつい手に取ってしまうのは、キャラクターとは裏腹に設定が現代的かつ現実的だからだ。

この小説は、ネット通販大手の倉庫で非正規契約社員として働く30歳の堅志と、スーパーのアルバイトで生計を立てる28歳の日菜子の同棲カップルの物語だ。彼らは「広い世の中の誰ひとり、自分たちを褒めてくれる人はいないから」と、同棲を始める際「お互いを褒め合って生きてゆく」というルールを作る。
そこそこの大学を出たものの就活から逃げ出し正社員になれなかった堅志は、プライドが高く同級生の話を聞いて卑屈になるタイプ。一方で日菜子は異常なまでに自分に自信がない対照的な性格だが、二人とも「身の丈に合った生活」にそれなりの幸福を感じていた。
ある日、堅志に正社員登用の話が舞い込んできたことをきっかけに、日菜子は別れを考え始める。

「わたしはダメだ。一番好きな人の夢がかないそうなのに、心からよろこべない。いつまでも自分と同じダメ人間でいてほしいって、心のどこかで思ってる」(略)
日菜子にとっては採用通知は別れの手紙と変わらない。どこかの会社の正社員の立派な妻になどなれるはずもない。

あぁ、出たよ誇張しすぎたひ弱な女性キャラクター…と私はここでだいぶしんどくなった。同棲相手と貧しい生活を送る女性が、彼が正社員になって昇給することを悲しみ、別れを乞うという思考回路が解せない。
読み進めていくとさらに引っかかる発言が日菜子から飛び出す。

(「今のままで終わるのは嫌だ」という堅志に対し)
「わたしだって嫌…でも、その先が普通の人になることでほんとうにいいのかな。ケンちゃんはそういうのじゃないと思ってた」

日菜子は堅志のことを「頭がよくてセンスもよくて仕事ができる」とやたら高く評価していて、正社員として働く普通の人生などもったいないと、どうやら本気で思っているらしい。

また、時を同じくして、堅志は中堅出版社に勤める大学時代の友人から、ある小説の文庫版の解説文を書かないかと声をかけられる。もともと読書家でその小説家のファンであった堅志にとって、憧れの文筆業への道を開く千載一遇のチャンスだった。解説文は見事に採用され、フリーランスのライターとして生きる道が見え始める。だけど正社員の話を受けてしまったら、副業はできないからその道は消えてしまう…と堅志の心は揺れる。

自分のこれまでの絶対的な基準は、弱さだった。堅志は自分の弱さにしがみついて、いつも重大な決断をくだしていた。弱い自分が砕けぬように、回復不能なほど傷つかぬように、別の誰かにつくり変えられないように。(略)
その弱さは、こだわり抜いて社会から逃げ続けてきたうちに、別の「強さ」になっていたのではないか。堅志は弱いまま、いつの間にか自分だけの絶対を手にいれていたのだ。それが今の非正規の仕事であり、日菜子との暮らしであり、自分が書く文章だった。

そうして堅志は、非正規で働きながら文章を書き、日菜子と貧しく生きる人生を選ぼうと決意するのだった。

彼らが勝手に作り上げた判断基準を守り続ける理由は、弱さが絶対的なアイデンティティと化してしまったから…果たしてそれだけだろうか。
社会的な基準を受け入れることで、これまでの人生を否定することになってしまうのが怖いのではないか?貧しくても幸せを感じられた価値観が揺らぐのが怖いのではないか?
もっと意地悪な見解を述べるなら、長い間正社員になりたくてもなれなかった堅志は、今さら正社員になって普通の人生を歩むより、たとえ稼げなくてもフリーランスのライターというかっこいい響きをもつ肩書きを纏って、プライドを保ちたいのではないか?

大学卒業後ずっと正社員を続けている私は、そんなことを考えずにはいられなかった。朝井リョウ著『何者』に登場する、あえて就活をしない大学生と堅志が重なった。

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