見出し画像

健康な個人(私とは何か「個人」から「分人」へ/平野啓一郎)

一人の人間は、「分けられない indivisual」存在ではなく、複数に「分けられる divisual」存在である。だからこそ、たった一つの「本当の自分」、首尾一貫した、「ブレない」本来の自己などというものは存在しない。

平野啓一郎氏が「分人」という新しい概念を元に、私とはどういう存在か?を論じる新書。

多くの人は、古くからの友人と話す時と、職場の同僚と話す時ではキャラクターが違う。同じように、家族や恋人やスーパーの店員など、日常的に多くの自分を使い分けていて、それらはすべて本当の自分である。

私たちに知り得るのは、相手の自分向けの分人だけである。それが現れる時、相手の他の分人は隠れてしまう。分割されてない、まったき個人が自分の前に姿を現すなどということは、不可能である。それを当然のこととして受け入れなければならない。

分人は必ず、他者との相互作用によって生じる。
以前、私の親友が陽気なスペイン人の友人と喋っている時、普段の倍くらいテンションが高くて驚いたことがあった。それを本人に伝えると、「無意識に相手に合わせてハイになってしまう」と言っていた。分人がうまれるプロセスは、意識的にはコントロールできない。
ナルシシズムが気持ち悪いのは、他者を一切必要とせずに、自分に酔っているところである。そうなると、周囲は、まあ、じゃあ、好きにすれば、という気持ちになる。しかし、誰かといる時の分人が好き、という考え方は、必ず一度、他者を経由している。自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だという、その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な点である。
愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことだ。

分人の構成比率もまた、重要だ。
私たちは日常生活の中で、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っている。(小説や映画の主人公に感情移入したり、アニメのキャラのコスプレをしたりする「変身願望」は、フィクションの世界との分人化願望として理解できる。)
だから、複数のコミュニティへ多重参加して多様な分人を獲得した方がいい。私たちの内部の分人は融合する可能性を秘めているから、結果、対立するコミュニティに融和をもたらし得るかもしれない。


私はよく、相手によって態度を変えない人だと言われる。相手が上司であろうと意中の人であろうと、初対面の人であろうと親友であろうと、わりと素のまま接している。私の内部の分人はおそらく人より少なく、個性がない。それは本書の定義でいえば気持ちの悪いナルシシズムなのかもしれないが、幸い今のところは多様な出会いや友人に恵まれ、社会的にも上手く生きている。

愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことだ。

この一文を読んで、私にとっての愛は、相手の存在そのものの域を超えられてないのだなと感じた。一方で、分人の構成比率が偏っている人の方が、特定の相手を束縛したり支配したりする危険を孕んでいるようにも思った。分人の不健康な状態について、深堀りしてみたい。

この記事が参加している募集

#読書感想文

189,460件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?