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文は人なり(もうおうちへかえりましょう/穂村弘)

歌人・穂村弘によるエッセイ集。描かれているのは冴えない日常ながら、そのユーモアたっぷりの文章に何度もクスリとさせられてしまった。ひとつのエッセイが4頁ほどで終わるため栞を挟みやすく、憂鬱な通勤電車で読むのにぴったりだと思う。
中でも私が深く共感した3つを紹介したい。

1. お互いを高めあう恋愛とは(「愛の暮らし」)

1980年代を通じて「お互いを高めあう恋愛」が広く布教された。その宣教師団の団長が松任谷由美であった。

「私があなたと知り合えたことを私があなたを愛してたことを死ぬまで死ぬまで誇りにしたいから」
「限りある命の日々燃やし合えたのがあなただからここまで来た」
「いつの日かかけがえのないあなたの同じだけかけがえのない私になるの」

等々。
だがしかし著者は、自身が「お互いを高めあう恋愛」に成功したこともなければ、街中を見渡しても該当するカップルを見つけたことがないという。

さまざまな習い事に手をつけ、仕事が終われば全力で自己研鑽に励んでいた女性が、彼氏ができるや否やずぶずぶと怠惰になってゆく様を私も何度か見たことがある。
自分を高めるのに必要なのはひとりの時間であって、恋愛はむしろ穏やかな休息の時間を共有するためにあるものではないか。自分よりレベルの高い人と付き合うことで自分のレベルさえも上がったように感じる瞬間は確かにあるが、それは錯覚に過ぎない。

2. 小太りの文体(「文体のこと」)

著者はものを書くようになってから、「意外と背が高いんですね」(実際は173cmで高くはない)、「意外と細いんですね」(そうでもない)と言われるようになり、自身の文章のトーンから「この人は小太り」というイメージが形成されるらしいことを不思議がっている。
思うに、小太りなイメージを形成している要因は文体よりも内容の方であって、穂村氏の文章は全体的にオタクっぽい=シャツをインしている小太り、というイメージに直結しているのではなかろうか。
また、「文章が面白い人は、死ぬほどモテなかった過去がある」という説があるため、面白い=モテない=小太りというステレオタイプを無意識に形成している可能性もある。

余談だが、例えばマッチングアプリで知らない人に出会う時など、メッセージのやり取りで人となりを見極めなければならない場面がある。この時に限り、返信のスピード、文章の長さ、絵文字の有無などが、時に文体よりも多くを語ることがある。

3. 本棚を見られるのが恥ずかしい(「本当の本棚」)

友達の部屋に行くと本棚が気になる。ちらちらと目を走らせてはどきどきする。背表紙の書名とその配置が持ち主の心のあり方を示しているように思うのだ。
だから逆に、自分の本棚をみられるのは心を覗かれるようで恐ろしい。抜き打ち検査で自分の本棚を調べられることを想像すると、思わず、本当は違うんだ、と云いたくなる。本当って、なんなんだ。

経験上、この感覚を分かり合えるのは二人に一人だ。本棚に加えて音楽のプレイリストもまた、頭の中身をそのまま写す鏡だと思う。だから恥ずかしい。
昔通っていたプログラミングスクールの講師が腕に巻いていたアップルウォッチに、UNISON SQUARE GARDENの何かの曲名が表示されていて衝撃を受けたことがある。
さっきまでこの曲を聴いていた=はは〜ん、今日は機嫌が良いんだな?/大丈夫!?失恋でもした!?
などと邪推される恐怖を、彼は一生知らずに生きてゆくのだろう。
同じ作品が好きだと分かればとても嬉しい。数百あるミスチルの曲の、いちばん好きな曲が同じだと分かると「運命?」などと思う。
それでも、好きであることを誇示されるのはちょっと違うのだ。

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