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この先の自分の生き方。考えてみた

このnoteは、カミーノさんのこの記事に触発されて綴りました。
カミーノさん、ありがとう✨
自分の生き方をみつめ、文字化するきっかけになりました。

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現在暮らしている地に、引っ越して間もない頃。
裏庭で落葉掃除してたら、ご近所さんが声を掛けてくれた。

話の流れで、私が日本出身であることが知れた。
「あれっ、そうなんですか!私の妻は、日本出身なんですよ。」
ちょっと待ってもらえますか、彼女を呼んできますと
慌ただしくご自宅に入り、すぐに美しい女性を伴い戻ってこられた。
それが、Kさんとの出逢いだった。

Kさんは、80代の日系シニア。
心優しき米国人であるご主人、Jさんとの結婚を機に渡米された。
「まあ、わたし、こんな普段着のおばあちゃんでごめんなさい。
 本当に嬉しい。日本の方にお会いできるの、久しぶりなの。」

日常生活で日本語を話す機会が全く無いからと、
ご自分が正しい言葉を話せているか、Kさんは気にされていた。
そのご心配は無用なだけでない。Kさんの日本語は、
お人柄そのままに明るく、穏やかな言葉に満ちたものだった。
久しぶりに日本語が話せることが、とても嬉しかったのだろう。
初対面である私に、色々なことを話してくださった。

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日を改めて、Kさんご夫妻のお宅にうかがった。
「私達はねえ、空に縁がある家族なんですよ。」
お二人は、羽田で出逢った。
Jさん、お子さん達は航空関係者だ。

Kさんには日本語、Jさんには英語を話す私の家族を見ながら、
「hikariさん、皆さん日本語も理解されていて、本当に素晴らしい。
私達の子どもが学齢期の時は、多言語教育が今ほど発達していなくて。
学校やプリスクールの先生にアドバイスをもらったのよ、
『この国でずっと暮らすなら、お母様はお子さんに、
 英語だけを使ってあげてください』って。」


今でこそ、多言語多文化教育が発達していているこの地だが
当時は、その状況だったのだ。
Kさんは残念に思いながらも、お子さん達に日本語で話すことをやめ、
家庭内言語は英語のみに切り替えたそうだ。

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一時帰国のお土産を手に、Kさんご夫妻のお宅を訪ねた。
しばしの歓談のあと、Kさんは、こうおっしゃった。
「hikariさん。おかえりなさい。
でもね、あなた。できるだけ、日本に行きなさいね。
お帰りになったばかりだけど、そう言わせてちょうだい。
hikariさん、日本に行ける健康と気持ちがある限り、お出かけなさい。
ご家族や、お友達がお元気の間に。」

今の日本には、Kさんが帰る家は無いそうだ。
ご自分のご両親はもちろん、ご兄姉、お友達までも亡くされて久しい。
外地にいるKさんに、親族皆さんお優しいそうだが、
Kさんは同じシニアである姪御さん、甥御さんの家族と日常に気遣い
礼を保つ程度の交流しかしていない。

「時間はかかるけど、飛行機にさえ乗っていれば、日本には着く。
でもね、いつからか、行かなくなってしまったのよ。
日本は素敵なところよ、本当に。行きたい、なつかしい場所でもあるわ。
でもね、私にとっていつからか、”母国”でなくなった。
到着しても、『ただいま』その気持ちを、感じなくなったの。
『おかえりなさい』といわれても、不思議な感じ。
じゃあ、ここに帰ってきたら『ただいま』と感じるのか。
それがねえ、そんな感じもしないのよ。何年もいるのにね。」


この感じは、私も想像ができる感覚だった。
今はまだ、母国に「ただいま」と入ってしまっているが、
年々、その「ただいま」感は、変わりつつあるのを実感してる。

この地に帰って来ると、”Welcome Back!”と声を掛けられる。
笑顔で、”ありがと。戻ってきて、嬉しい”と言葉では応じるけど、
実は真底で「ただいま」感はない。

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Kさんご夫妻宅の裏庭は、今日はにぎやかだ。
ご夫妻のお子さん家族が集まり、庭仕事を手伝っている。
いつもは、おひとりで芝刈りされているJさんだが、
今日は芝刈り機に触らせてもらえないようだ。
お孫さんと思われるティーンが次々、手際よく芝を手入れしている。

ご自宅に籠りがちであるKさんも、今日は戸外にいらっしゃるのだろう。
Kさんの弾んだ大きな声が、聞こえてくる。
・・・あれっ、日本語!?
確かご家族皆さん、日本語がわからないのでなかったのでは。

後日、Kさんはこう語ってくれた。
「hikariさん、私ね。若い時に英語を学んでいたので、
ここで困らない程度には話すことができていたの。
家族にはもちろん、お友達にも英語を話していたわ。
でもねえ、なぜか今は、英語が出てこなくなってしまって。
日本語は、だいじょうぶ。不思議でしょ。
全然、話す機会も無かったのに。」


そういえば、Kさんはご主人のJさんに、時節日本語を話されていた。
日本語を話す私がここにいるから気遣っていたのかもしれないが、
そのような理由もあったとは。

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日本語を解さないJさんは、Kさんの日本語を、
慈愛をこめた笑顔を保ったまま、聞いていた。
「日本語は、美しい響きの言葉ですね。」
J さんはそう言った。
「私は日本語がわかりません。
でも、Kが話すことはね、なんとなく理解できているように思います。」

内容をご自分なりに察して、Jさんは英語でKさんに話しかける。
Kさんも、簡易な英語で返すこともある。
傍らで聞いていると、会話の内容がかみ合っていないこともあった。
それでも二人は、和やかな雰囲気を終始保っていた。

「hikariさん、私はとても幸せです。」
Kさんの言葉は、私の胸を打った。

主人と結婚することを選んで。
家族もお友達もいなかった、言葉も違う国に暮らし始めました。
自分が育ったのと違う文化と社会の国で、子育てして。
「結婚したらお前は苦労するぞ」誰もに、言われました。
でもね、私、苦労なんて無かったんですよ。本当です。
「苦労するに違いない」といわれた相手である、
この主人と共に生きておりましたが。
とても、幸せなことばかりでしたよ。

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なぜKさんが、永くこの地に暮らすことにされたか。
私は、理解できる。
母国でないところに暮らし、加齢でその地の言葉を失い、
使いもしない母国語しか使えなくなっても。
互いに魂から、愛し合える人間が傍らにいたら。
世界中、どの地にいても暮らしていけるだろう。

今、悪態をつきあっていても、
死ぬまで共に暮らす予定となる人が傍らにいるのであれば。
その方々はどうか、傍らにいらっしゃる存在に、
感謝と尊敬、愛を向けていただきたいと、私は思う。
そのような人がいることは、奇跡の連続でしかないことだから。

この先の自分の生き方を考えてみた。
私は1人ではない。
私の傍らには、家族がいる。
素晴らしい友人も近くに、そして遠方にもいる。
それは、とても有難いことだ。

しかしながら皆、それぞれの人生と生活がある。
そういった意味では、私は”ひとり”である。
言い換えれば、私はとても自由な存在であるということだ。
自分がどのように生きたいかを絶えず研ぎ澄ましていく必要がある。

この先。おそらく母国に、行くことにするだろう。
在留資格を取る必要が無い利便性と、
シタゴコロ全開だが、大好きなアジア圏に近い立地だからだ。
Kさんのケースを目の当たりにして、日本語で生活できる環境に
暮らした方がいいだろうと、考えが変わったからでもある。

そこで、生活の基盤を築き、皆と共に社会を形成していきたい。
単身で身の回りのことが出来なくなった時でも、
母国の医療・介護環境は安心できる。
(皆さん、職務意識が高くて、優しそうだもの)

しかし、離れてこの地に暮らす家族達世代に迷惑をかけたくない。
よしっ、フンパツして、ケアが厚い老人ホームに入ろう。
毎日、入居仲間とやさしい介護士さんとおしゃべりして。
バラエティ豊かで、美味しいホーム食をいただいた後は、
イケメンの介護士さんに、お姫様抱っこでベッドに寝かせてもらうのだ。
自分で動ける限り、ヨガもしたい。

私は、十代の頃から臓器提供と献体を希望している。
この体は、役立てきってもらえたら、地球に還してほしい。
さらに肉体の死が近づいた頃、
専門業者に灰は海に撒いてもらうよう、生前手配する予定だ。

でもね。
魂の隣り合う人と出逢えたら。
上記は全て、予定変更となるだろう。
・・・・・それは、それで、幸せ・・・ (*//∇//*)
こうつぶやいて。
妄想一杯のまま、このnoteは、ここまでとします。
お付き合いいただき、ありがとうございました。





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