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人との交わりは味の変わったプリンのようで


例えばの話。目の前にある大好きなプリンを頬張るとしよう。
食べてみると、それは意外にもおはぎの味をしていた。

私はおはぎが嫌いではないけれど、いただいた時に食す程度で好んでは食べない。
だけどよりにもよって。仕事が終わって、へとへとの身体を引きずって、楽しみにしていたプリンを食べたらおはぎの味にすり替わっていた。
これは事件だ。

いやしかし、昨日まではなんのへんてつもないプリンだった。
見た目麗しいコンビニスイーツをこの目で確認し、レジへと持っていったのだから間違いない。
おはぎの味は勘違いだったのかもしれない。仕事の疲れで味覚が障害を起こしたのかもしれないし。もう一口食べてみよう。

…なんと。今度はチョコミントの味がした。
あまりにも見た目と違うその味に、思わず私は舌を巻いた。
何を隠そう、私はチョコミントが大好きなのだ。例えプリンからチョコミントの味がしようとも、大好きなプリンの外装とチョコミントの味わいを楽しめるなんて一石二鳥じゃないか。あまりのギャップに脳が少々混乱してしまうところが難点だけど、そこは良い方向に考えれば問題ない。
美味しくいただこうと、残りのプリンへと手を伸ばした。

しかし、今度はひとくち目と同じくおはぎの味がした。
それどころか餡の要素は少なく感じられ、舌はほぼお米の味しか検知してくれないのだから質が悪い。
お米もあんこもプリンも別々で食べれば美味しいのに、見た目と味のバランスが崩れるだけでこんなにも後味の悪い仕上がりになるなんて。
もはやこのプリンを食べ続けて良いものか、不安と恐怖が私を襲う。

それでも食べる。食べ続けてみる。しかし、気付けばおはぎの味に囚われていた。噛めば噛むほどに甘酸っぱくほのかに卵の風味を感じるけれど、もはや噛み続けるのが億劫になるのでおはぎのまま飲み込んでしまう。本当はどんな味だったのか、その味を頭の中で咀嚼することすらできない。気付けばプリンの見た目をしたおはぎとして消化されてしまったのだから。

知れば知るほど変わっていく味わいを楽しむには、生を楽しむ余裕とバイタリティが必要なのではないか。
私は最近そんなことを考えている。

だって、どんな味がするかわからないプリンを噛み続ければ、違う味が見えたのかもしれない。年齢と共に感じ方も変わっていくかもしれない。
それらを本気で味わい尽くそうと思ったら、長い時間をかけて見守る根気と体力が必要になるということだ。

例えば、今目の前に転がっているじゃがいもや、スーパーでみずみずしく輝いているいちご、これらを表面的に味わうことなんて簡単だけど、その本質を見極めぬまま手放すことに果たして意味はあるのだろうか。たとえそれらが何の意味も持たない存在であろうとも、価値を自分という小さな人間によって決定してしまって良いのだろうか。

想定外の味を受けとめる覚悟もなく、ただ怯えて怖がっている私は、とんでもなく損をしているのかもしれない。
頭では理解していても、言いようのない不安に包まれて、結局流し込んでしまうプリンの味を、私はまだ知らないままでいるのだ。

いつか。このまま歩いていく中でいつか。
何も怖がらずに、七変化の味を真正面から楽しめる人間になりたい。

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