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美唄人図鑑

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美唄をつくっている人を紹介します!
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記事一覧

Vol.67ー被災を乗り越え再始動ー地元を愛し、地元に愛されるやきとり屋

『美唄焼鳥 たつみ』焼き師 藤本和己さん 1968年に創業以来、55年に渡り美唄のソウルフードとして日本全国で親しまれている美唄やきとりのお店の一つである『美唄焼鳥 たつみ』。 今回は、1988年に店を継ぎ、現在も店頭に立ち続ける2代目藤本和己さんにお話を伺った。 ◆ソウルフード『美唄やきとり』誕生 美唄やきとりが誕生したのは、今から約70年前の1953年年頃。「三船」の開業から始まった。たつみの創業者である一代目藤本正明さんも初めは三船で10ヶ月ほど修行をし、たつみ

Vol.66 ”あい”で溢れるまちの眼鏡屋「メガネの三愛」

メガネの三愛 代表 倉知忠良さん 美唄の商店街を通ると、ふとお洒落なお店に目が留まる。看板には「メガネの三愛」と書かれている。今回はその眼鏡屋を営む、倉知忠良さんにお話を伺った。 屋号「三愛」の由来店名である三愛には、3つの”あい”が込められている。 1つ目が、目の“eye”。 2つ目が、人との出会いの“逢い”。 そして、仕事に対する愛情の“愛”。 ”あい”というのは、先代であり創業者であるおじがずっと口にしていた言葉である。創業以来これらの想いを大切に、挑戦を重ねて

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【動画】「日本人を支える美味しいお米を作り続ける」そう決めた美唄の若手農家

様々な困難が予想される2040年の美唄を見据え、まちの若者が中心となり制作した新しいシンボル『 Be Beautiful 美しくあれ。』 「美しさ」とは、外見や見た目のことではなく、風土や文化に根ざし、協働して逆境に立ち向かう精神である。 それを体現するヒト・モノ・コトを通して、美唄の魅力を再発見し、未来の美唄をつくっていく。 今回取り上げるのは、ささはら農SUN 笹原我斗さんです。

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【動画】農業協同組合発祥の地とも言われ「協同の精神」が根ざす美唄で、不足を楽しむ農家

様々な困難が予想される2040年の美唄を見据え、まちの若者が中心となり制作した新しいシンボル『 Be Beautiful 美しくあれ。』 「美しさ」とは、外見や見た目のことではなく、風土や文化に根ざし、協働して逆境に立ち向かう精神である。 それを体現するヒト・モノ・コトを通して、美唄の魅力を再発見し、未来の美唄をつくっていく。 今回取り上げるのは、(株)スタンドブルーファーム代表 岸本久靖さんです。

Vol.62 「日本人を支える美味しいお米を作り続ける」そう決めた美唄の若手農家

ささはら農SUN 笹原我斗(ささはらかいと)さん ◆農業の近くで育ちながらも、ギャップからのスタート 農家の息子として育ったが、手伝いそっちのけで楽器をやっていて、音楽の道やさらに違う道も考えた。それでも進路選択のときに農業をやろうと決めた。 その後農業大学校を経て、現在は両親と農業を経営している。米と麦と大豆を育て、お米の品種は「ゆめぴりか」と「きらら397」。 ギャップもあったし、3年目でもわからないことだらけ。学校で学んでいないことも自分で考えてどうにかしていく

Vol.61 農業協同組合発祥の地とも言われ「協同の精神」が根ざす美唄で、足りないを輝きに変える農家

(株)スタンドブルーファーム代表 岸本久靖さん 農業高校の教え子に触発され、自身も農家へ 農業高校の教員として勤務していた時に、熱量ある生徒たちとたくさん出会った。将来の農業従事者に触発され、自らも農家出身だったこともあり、農家の道を歩み始めた。 当時の教え子とは毎年のように農作業を一緒にし、互い刺激を与え合う関係性が続いている。修学旅行生の受け入れをしているのも、教員時代の経験が大きく影響している。 就農から試行錯誤の日々 就農から5年目の2023年は、「ゆめぴり

Vol.57 委員紹介⑪「美唄とともに自分も成長していく」美唄尚栄高校/沼達藍音さん

『美唄の未来に夢を描く委員会』11人目ラストの委員インタビューは、美唄尚栄高校の沼達藍音さんです! 記事を通して、メンバーのまちへの想いや委員会の活動についてお伝えできたらと思います。 —こんにちは!今日はよろしくお願いいたします。 よろしくお願いします! —まずは中学までの沼達さんについておしえてください! 生まれてからずっと美唄で暮らしています。 母の仕事の関係で、他の保育所からアルテピアッツァ美唄にあった栄幼稚園に転園しました。幼稚園では、同じく委員の(大西

「多様な人との対話・協働を諦めない」今田ファーム/今田雅之さん 委員紹介⑩ Vol.51

『美唄の未来に夢を描く委員会』の10人目の委員インタビューは、今田雅之さんです。記事を通して、メンバーのまちへの想いや委員会の活動についてお伝えできたらと思います。 土と触れて育った 2個上の兄と3個下の妹の真ん中で、にこにこしている子供だったみたいです。自分が小さい頃は近くにも保育所があったため、そこに通っていました。小中学校はスクールバスで中心部まで通学していました。当時はキックベース(野球のサッカー版みたいな遊び)が流行っていて、近所の同世代の友だちと学校のグランド

「巻き込まれ、巻き込んでいく」岸山印刷/岸山宗一郎さん 委員紹介⑨ Vol.50

『美唄の未来に夢を描く委員会』の9人目の委員のインタビューは、岸山宗一郎さんです! 記事を通して、メンバーのまちへの想いや委員会の活動についてお伝えできたらと思います。 地域の中で育った 曽祖父が始めた印刷会社の長男として生まれました。地域の方にはよく可愛がってもらってました。 二人の姉の影響で、エレクトーンとピアノを始めます。小学校高学年のとき憧れていたスクールバンドに入り、そこではトランペットを担当していました。ゲームや外で遊ぶのも好きでしたね。 中学校に入り、

「生まれ育ったまちが違って見えた」 美唄市職員/藤田栞さん 委員紹介⑧ Vol.48

『美唄の未来に夢を描く委員会』の8人目の委員のインタビューは、藤田栞さんです! 記事を通して、メンバーのまちへの想いや委員会の活動についてお伝えできたらと思います。 純美唄 美唄の病院で生まれました。 当時は子どもの数も比較的多く、小・中学校も3クラスくらいあったんです。習い事のそろばんに打ち込んだり、自転車でまちを走り回り(笑)、公園でバドミントンとかをしたりしていました。町内会の盆踊りとかもあって、近くに住む友だちと一緒に参加したりしていましたね。 高校はとなり

「委員会がまちを客観視するきっかけに」 美唄市職員/小川豪さん 委員紹介⑦ Vol.46

『美唄の未来に夢を描く委員会』の7人目の委員のインタビューは、小川豪さんです! 記事を通して、メンバーのまちへの想いや委員会の活動についてお伝えできたらと思います。 部活や消防団でまちのイベント参加 旭川で生まれ、2歳くらいの時に美唄に引っ越してきました。親戚が美唄にいたんです。 小学校から高校まで、陸上競技では走り幅跳びと三段跳びをやっていました。美唄尚栄高校に進学し、全道大会にも出場することができました。 毎年開催されている、「ピパオイヘルシーロードレース」に参

「温故育新」 美唄市職員/南出倖星さん 委員紹介⑥ Vol.44

『美唄の未来に夢を描く委員会』の6人目の委員のインタビューは、南出倖星さんです! 記事を通して、メンバーのまちへの想いや委員会の活動についてお伝えできたらと思います。 その時その時を楽しんできた 思い返すと落ち着きのない子どもで、よく先生にも叱られていました(笑)。 友達と外で走り回ったり、ゲームをしたりしていたのを覚えています。また、家族とお祭りなどの地域のイベントに参加していました。 中学3年生の終わりには、公務員になろうと漠然と考えるようになり、家から通える岩

「明るい動きを見せていきたい」聖華高校/大西眞斗さん 委員紹介⑤ Vol.42

『美唄の未来に夢を描く委員会』の5人目の委員のインタビューは、大西眞斗さんです! 記事を通して、メンバーのまちへの想いや委員会の活動についてお伝えできたらと思います。 ルーツは屯田兵だった かつて炭鉱で栄えた南美唄という地域で生まれ育ちました。 先祖はもともと屯田兵として美唄に入ってきた人で、農業を営んでいました。家の周りは畑ばかり。小さい頃には農作業を手伝ったりもしていましたね。 幼稚園は、アルテピアッツァ美唄にあった栄幼稚園に通っていました。(2021年に閉園)

「想いをうけつぎ つなぐ」NPOアルテピアッツァびばい/影山宏明さん 委員紹介④ Vol.39

『美唄の未来に夢を描く委員会』の4人目のインタビューは、影山宏明さんです! 記事を通して、メンバーのまちへの想いや委員会の活動についてお伝えできたらと思います。 原点となる家族の影響 父親が大工の家庭に生まれ、実際に手を動かしてモノを作るのを近くで見ながら育ちました。また親戚が農家をやっていたので、たまに農作業を手伝っていたのを覚えています。 二人の兄の影響も大きく、地域のサッカークラブに入ったり、小さい頃からファッションやインテリアの雑誌を見たりしていました。それら