Love me tender 壊れる
ニューオリンズでボビーはブルースを歌う。わたしはハーモニカを吹いてすっかりいい気分だった。ほかにはなんにも欲しくはなかった。ボビーがいてくれれば、たいていのくだらない話に付き合ってくれたし、風の強い夜は抱き寄せてもくれた。
旅はかならずおひさまの下、というわけにはいかない。あまりよく覚えてはいないが雨もあった。雨に打たれるのは楽しかった。むかしはね、わたしにはなんにもやることがなかった。
雨の粒を数えること。
無理だってわかっているのに、最初の1秒、まじめに数えようとしてしまう。
花が今、ひらこうとするその瞬間を視ようと待ち構えること。
アリの巣を棒でつついて壊すこと。
ハミングバードにおはようの挨拶をすること。
それくらいしかすることがなかった。
この世界はぜんぶ神さまが嘘でつくったんだと思う。
ボビーがギターを弾くと心がぎゅんぎゅんする。どこまでも歩くしかないし、歩くのが楽しい。アスファルトはときどきぐにゃぐにゃするし、走ると苦しい。クスリのせいね。そんなことはでもどうでもいいんだ。
ときどき金持ちの紳士淑女に出会うとなんだかビックリする。奴らがわたしをバカにしていることがよくわかるんだ。汚い女だと思ってるのがゾクゾクするくらいよくわかる。指をさす奴もいた。逆に指をさし返してやったら気取って眉をぴくつかせて逃げて行った。
面白くて仕方ない。
テキサスからカリフォルニアまでボビーとふたりでバスに乗った。荒野は圧巻だね、人間はスグに正しいとか嬉しいとかそういうふうな気持ちを定義したがるけど、バスに乗って荒野を揺られてる時、別にわたしは正しくもないし嬉しくもない、とつぜんテンションがあがってわけもなくバカ話をしたくなる。ボビーが笑ってくれるといいけど、笑ってくれなくてもそれはそれでいい。
太陽がすごいのは日向をくれることだ。黄色い日向の中で赤いバンダナを振り回すと世界がぜんぶぐるぐるひっくり返る気分になる。
最高の気分だ、これだけが欲しい。
他はねぇ、本気でどうでもいいんだ。そう思わない?
失うものなんてさいしょから持っていない。
そう言える珍しい女でありたい。
だれもわたしを止められない。
歌うのも踊るのも狂うのもぜんぶ自由。ほんとさ。
何人かの男がわたしの腕をつかんだ。
「まともになりな」言いながらわたしの太ももに手をはわせる赤毛のチビもいた。
お前らよりよっぽどわたしはまともなんだよ。
サリーナスでボビーが消えた。なんにも言わずに消えた。きっと居場所を見つけたんだろう、いいんだ、ボビーがそれでいいなら。
ただこれからどこに行ったらいいのか、よくわからない。
ふるさとがないのはこういうとき不便なんだよ。
ハーモニカを吹いた。
なぜだろう、むかしママが歌っていたラブ・ミー・テンダーを思い出したんだ。ラブ・ミー・テンダーをハーモニカで吹いた。
つぶした段ボール。
うす汚れた少年が寝そべっている。
虚ろな目が愛しい。
壊れる。
きれいだ。
参考:Me and Bobby Macgee by Janis Joplin
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