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とても小さな世界(4)

あと一つ。

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 その日の朝、何も言わずにぼくは立ち去った。それからチハルがいなくなったのはすぐのことだったと、ぼくはタカシから聞いた。
「タツさん、あれから半狂乱になって探していたらしいですよ」
「誰を」
「シュウさんを」
「なんでよ」
「精液まみれにして、俺への挑戦か? だってさ」
「なんだそれ」
 そう言いながら、ぼくとタカシは安い酒を二人で酌み交わす。あれからタカシは一生懸命普通にサラリーマンとして働き、素敵な恋人にも恵まれたらしい。ぼくはまだ、今も実家に暮らしながらぶらぶらとしているだけで。
 それから半狂乱になってタツが探し回り始めたという話は確かに聞いていた。その半狂乱状態が、どれだけチハルを愛していたのか、という何よりの証左だったのだろう。ただ、どうやら最後まで会うことさえ叶わなかったようだった。何カ月か経って、どうも粗悪品を吸い込んだまま、タツはタクヤとリカと3人でカーチェイスを繰り広げたらしい。逃げている途中警察から追われて、車が塀にぶつかって、リカが死んだ。そんな話をタカシから聞いた。
 運転していたタツは逃げ回っていて、怒り狂いながらぼくを探している。話したいことがあると連絡が来たので、連絡をくれたタカシはわざわざ義理堅いと思った。きっと、あいつはぼくを刺し殺しにでも来るのだろう。だが、それはお門違いというものだ。一番チハルをないがしろにしてきたのは、一体どこの誰なんだろう。そのうちぼくの家に来るのだろうか。
 ただ、あれだけ家族を気取っていた仲間の一人を悼むこともできないのは、どうにも湿っぽくなってしまう。あれだけブリって大騒ぎして、誰かとファックをしながら最高で最悪な夜をトリップしながら迎えることができていた。そんな瞬間はもう来ない。そう思うと、少しだけ切なく思ってしまう。この瞬間にタツが刺し殺しに来たとしても。
 静まったところで、そろそろ会計でもして帰ろうということになり、ぼくとタカシは店を出た。ボロボロのスニーカーに目を落としてから、ぼくはタカシに訊ねた。
「そういえばさ、何でぼくは毎回乱交すると、ブーツを履いていたんだろう?」
「あー、そういえばそんなことありましたね」
「それも女物ばっかよ」
「うーん」一回考えてから、タカシは思い出したように語り始める。「あれですよ、シュウさん、脚フェチだって言っていたじゃないですか」
「それで!?」
 大笑いしながら、ぼくとタカシは別れた。多分もう、会うことも無いかもしれない男と、笑って。

 少しだけまた冷え始めた気候に、ぼくは少しだけ辟易とする。そう言えばナツミに心へし折られたのも、ちょうどこのころだったかなと思いながら。ぼくとタカシが二人で食事に行ってからすぐに、タツが逮捕されたというニュースが駆け巡った。その時タツは既婚者で子供もいる、パパだったということも知った。それなのにあんなに乱痴気騒ぎを起こしていた彼もまた、ぼくと同じように心の隙間があったということなんだろうと思う。
 眠たそうにしている顔写真が出てきて、ナカノタツヤという名前までさらされて。ちょっと前まで有頂天になっていた彼は、目の奥に濁っている何かを浮かばせていたようにも思えてならない。そして、チハルは分かっていた。自分が選ばれることがないということを。だからこそ、自らで身を引いた。ぼくらは最初からきれいな世界にいることが出来たなら、きっとこんなに傷つく必要なんてなかったんだ。美しい湖だと思っていたのに、そこがドブだったということだけで。あれから一度だけ、ファミリーのビルを訪ねた。鍵は空いていて、がらんとした部屋の中には誰もいない。ただ、足の踏み場もないほどに散らかっていた中に、ブーツはどこにも置いては無い。履かれるのを待つのではなく、自分を突き動かす何かを自分で見つけなければならない。素敵な場所へと辿り着くために。
 だからこそ、多くの人はこの濁っていた時間は間違いなく不必要で、この小さな世界で満たされていたすべては無意味だった。そう言うのだろう。それでもぼくらは生きていかないといけない。透き通ったナツミの目は、きっともうそうした決意と正解を見出しているようだった。
 旅に出ようと思う。足首までのジッパーを上げる。くたびれたスニーカーから大きく変わったそれは、太ももまでは達していない。ペニスも反り立たない。成長か? 違う。ただ、足元が変わっただけだ。まだどこにも辿り着けているわけではない。
 夜明けの空がやたらときれいに見える。ラッセンはきっともっと幻想的に描くはずだ。写実的にはきっと作り出せるわけがない。だからいつか、ぼくは。その瞬間を切り取ることができる人になろう。きっとこの靴が導いてくれる。そう信じながら。

(了、チハルへの手紙に続く)

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