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毒の付いた鎖

これが全編です。もしよろしければ。


 少なくともここは灰色に満たされていない、とぼくは感じた。それは辺りを見渡したがゆえに得ることが出来た結論だった。どちらかと言えば白色に近く、もっと言葉を言い換えるなら、おしゃれなマンションのようにコンクリートを打ちっぱなしにしたような。そんな色合いだった。ただ、見えている景色はどこかモノトーンでおおわれているように思えてならない。雨が降りそうな外を眺めながら、教師の話を聞いている午後の授業のよう。それなのに、ここには日常がない事は確かだ。やがて、扉が開き気難しそうな顔をした男がぼくの前にどっかりと座った瞬間に、その確からしさは確信へと変わる。ぼくはこれから、取り調べを受けることになるのだから。いくつかの間があって、ようやく男は口を開く。彼は、自らの名をキムラと名乗った。
「これから取り調べを始める」
「よろしく」
「君みたいな若い子にもこういう思想がねぇ」
「若いかどうかなんて関係あるんですかね」
 左側にある白に近い灰色の壁を眺める。傍から見れば、ぼくの態度はひどく透かしたような、人をおちょくっているかのような。そういう態度に見えるだろう。だが、キムラと名乗る彼は関心がないのか腹に怒りを鎮めたのか。そうした態度を全く見せないまま、ぼくと相対していた。
「では、なぜ君は捕まったのか分かるかな?」
「ワクチンプログラム未登録者だから。表向きはね」
「表向き? 罪に表も裏もあるか」
「確かに。でも色々とバレちゃいけない事ってあるでしょ」
「スパイにでもなったつもりか」
「そんなつもりはないですよ」
「ならばそういう不用意な発言は慎むことだ」
 ぼくの目の奥をずい、と一瞥してからキムラは書類に目を落とした。
「君もウイルスを偽物だの統治のための手段だのと言うつもりか? まるで反乱軍だな」
 そうやって笑いながら、キムラの言葉が続いた。
「ああ、そういう話もありましたね。別にあれが本物でも偽物でも茶番であっても、別にぼくにとってはどうでも良いんですよね」
「どういうことだ?」
 書類から目を上げたキムラは、またぼくの目の奥を探る。恐らく彼は、尋問としては凄まじく優秀なんだろうなということだけぼくは思った。

 この少年を見た時、私はいわゆる若いが故に周囲と違うことをやって目立とうとする類の者だろうかと感じた。得てしてティーンエイジである彼らはそうした表向きの顔とは裏腹に裏の顔を持とうとするものだ。彼もまた、同じように目の奥から感じたのは果てしなく昏い色をした瞳にしようとしているのが私には分かった。全てを見透かそうとしている目。傍から見れば受け答えはとてもしっかりしていたし、また家族や担任らにはひどく従順な少年のように感じられたわけだが。
 私はそんなひねた人間というのが嫌いだ。かつて、海の向こうに何があるかと語り合ったあの男のことを思い出すから。それから海の向こうへと消えていってしまったことを思い出してしまうから。たった一人で自ら舟を漕ぎながら、消えていった男。あの時もまた、天からの災厄によって人と人とが遮断される。そんな時代だった。
 思うとこの10年という歳月で、私たちの世界はいくつもの災厄に見舞われた。私たちの街は10年前に大きな地震により海へと沈み、そこで生活を営んでいた者たち全てが生活することすらままならなくなった。やがてそれらは復興という形で多くの人々の手と手を取り合うきっかけとなったわけだが、そのふれあいすら奪われたのが今世界中で起きているパンデミックだった。
 ある大陸から運ばれたウイルスは、瞬く間に私たちに襲い掛かり、そして数々の命を奪い去って行った。感染力が強く、感染した者は隔離され、そして世の中は人と人とが触れ合うことすら許されない時代へと変貌を遂げたのだった。賑わいを見せていた街並みはやがて静寂が訪れ、娯楽やそれまで私たちの何気なくあった日常も大きく変貌を遂げた。
 その象徴が、マスクとワクチンだった。政府はマスク着用を奨励し、着けていない者は吊るし上げられ、糾弾されるようになっていった。すぐさまワクチンが作られ、やがて摂取することを義務化されるようになり、次第にパンデミックが沈静化していくと思われていた。だが、ウイルスはどういうわけか消えないまま今も尚、私たちの生活の中で自分たちがいつ感染するのかという恐怖心もそこに介在していた。
 ワクチンが作られ、やがて私たちはそれらを打ちはじめ、大きく騒がれていたようなパンデミックは消え去って行った。だが、生活は同じように営まれているようで確実に変わっていた。マスク着用を義務付けられ、私たちは汚れることをひどく畏れるようになった。その中で、次第にそれらに反発するものも生まれ始めていた。マスクなんてしていても意味がないという考えを持つ者や、ワクチンについて異を唱える者も現れた。やがてそれらは日常の中にある争いの火種となり、やがてそれは物理的な形に変貌を遂げることになった。大半がワクチンを打ち、マスクを着用している中でワクチンを打った者とそうで無い者を区別し、取り締まるようになった。ますます反発が大きくなると、ワクチンを打たない者が徐々に蜂起しやがて首都軍によって鎮圧をされるようになっていった。
 かつて平和を愛していた私たちの国は、自らの正しさのためにたかだか下らない理由で争いを始めることとなったのだ。ワクチンを打てば、それで済む話だというのに。そして、調書に書かれた少年……ヒロイハヤトと書かれた少年もまた、ワクチンを打たない国民として今私たち首都軍の尋問を受けることとなっていた。
「君もまた、このウイルスが茶番だと信じている。だからこそ、ワクチンを打たないとかいうつもりなんだろ?」
 彼のような子どもは何人もいた。だが、いざ尋問してみればワクチンプログラムにその名前が乗っていることが大半だった。所詮こいつもただほざいているだけだろう。そう感じていた。
「さっきも言ったじゃないですか」
 ヒロイハヤトは口を開いた。ややうんざりとした口調で。

 うんざりした。同じことを二回も言いたくは無かった。このキムラという男、思ったよりもバカなのか? そんなことを思った。話の通じる人を呼んでほしいと思った。
「さっきも言ったじゃないですか。別にあれが本物でも偽物でも茶番であっても、別にぼくにとってはどうでも良いんですよ」
「じゃあ、何だというんだ?」
 怪訝そうにキムラは返した。前言撤回だ。少しは話が通じるかもしれないと思った。だが、ぼくを子どもと軽蔑している眼に変わりは無かった。別にそれでも構わないとは思ったけれど。
「マスクを着ける、そしてワクチンを打つ。これってもっと別にある手段なんじゃないかって、ぼくは思うんだ」
「都市伝説系の話は受け付けないぞ」
「ぼくはフリーメーソンとかそういうの興味ないよ」
 意外とそういうの見る人なんだ、とぼくは思って笑った。何がおかしいという顔をしていたけれど、彼が目に見えている物に対して四角四面に生きてきた何よりの証拠だと思った。
「マスクやワクチンに関する事件、あなたなら一番よく知っているでしょ?」
「もっとも、私たちが取り締まっているのだからその通りだな。そろそろ良いか? 尋問を始めるぞ」
「なぜワクチンを打たないか、についてだよね?」
「分かったような口をきくな」
「別にぼくは反乱軍でもなければテロ組織でもないんだから」
「ワクチンプログラムに反するものは、全員テロリストのように取り締まれと言われている」
「分かった。じゃあ、その前になぜワクチンを打たないかについても含めて話すから、まだ話していても良いかな?」
 じっとキムラの目を見た。思ったよりもキムラは従順だった。というよりも彼は決して尋問をする人間として不適格なほど、会話が下手なのかもしれないとふと思った。
「ぼくが一番気になったのはね、なぜ最初からワクチンを義務化しなかったか、ということなんだ」
「それは……、ウイルスがそれほど脅威ではなかったからだろう」
「でもすぐに義務化された。それはなんで?」
「それだけ脅威だと感じられたからではないか?」
 なるほど、キムラは決して間違ったことは言っていないと思った。だが、決して彼が納得いく正解を持ってはいないからでもあるように感じた。
「じゃあさ、何でこんな性急にワクチンが出来上がったんだろうね?」
「それは色んな人たちが頑張ったからだろう」
「ワクチンは普通、何年も臨床してその結果初めてできる物なのに?」
「何が言いたいんだ。つまり、副反応があるからとかそういうことが言いたいのか?」
「そんなに焦らないでよ」
「ここで尋問しているのは俺だ。答える義務がお前にある」
 意外とつまらない男だ、とぼくは思った。強く机を叩いたキムラに対して、ぼくはそう思った。
「別に副反応の話をしたいわけじゃないよ」
 感情を殺して、ぼくは言葉を走らせた。
「じゃあ、何の話だ」
「どうして、すぐに副反応というリスクが明らかになったのかな?」
 キムラの顔が変わった。
「何が言いたい?」
「その気になれば情報なんてシャットアウトできるのに、どうして政府は副反応については抑え込まなかったんだろう?」
 その言葉にキムラが固まった。だが、表情には出さないまま言葉を探していた。

 瞬間的にヒロイハヤトへと返す言葉が無かった。私は固まったまま、彼をじっと眺めた。彼の目は濁っているどころか、至って澄んでいるのだから。
 確かに、政府がその気になればいくらでも情報統制をすることができるものではあった。むしろ「副反応はあるもの」として世間に定着させてそれを日常にさせようとしているようにも思えたからだ。
 確かにワクチンを打つとそれから数日間は高熱に苦しむ、という臨床結果があるにはあったそうだ。それは毒性を薄めたウイルスだからというの論調もあるが、明らかにウイルスにり患したのとは異なる症状を訴える者も少なくなかったからだ。高熱はもちろんだが、それ以外にも体のだるさや頭痛、寒気に体中の痛み、下痢など様々な副反応が報告されたのだという。中には死に至ったものも居た。そういうニュースも流れていた。だが、当初はワクチンに副反応は無いという触れ込みであったこともまた思い出された。そして、ワクチンを打てばウイルスにり患することも無くなると。しかし、実際にワクチンを打ってもり患する人は後を絶たないし、また何度も感染するものさえ出てきた。
 そして、当初はこれも「努力目標」のはずだった。だが、いつの間にかそれらは「義務」に変わって行った。ワクチンを打った者だけが行動を許され、ワクチンを打たない者はそれだけで白眼視されるまでになっていた。いつの間にか、である。
 それ以上にウイルスの脅威もまた人々を恐怖に陥れていたのは紛れもない事実だった。
 だからこそ、多くの国民がワクチンを打ったのだ。そして今も尚、マスクを着ける生活を義務付けている。
 そうした生活が次第に私たちの心を蝕んでいったのか、ワクチンを打たない者への差別も次第に始まるようになった。感染したら誰が責任を取るんだ、自分だけで済むと思うなよ。最初はいわゆる同調圧力というものだったが、それが次第に大きくなるとまるで異教徒に石を投げつける様に変貌を遂げていった。自分は打ったのに、どうしてお前は打たないんだ。こうした罵声も飛び交うようになっていた。
 その中で政府もまた、ワクチンを打った者をプログラムとして登録し、打たない者へと取り締まりを次第に強化するようになった。それが今の法律で反乱なども相次いだことから、気が付くと管轄も警察から首都軍に変えられていた。尋問は専門外でありながらも、私がこうしてヒロイハヤトに尋問をしているのはそういう理由もあった。
 確かに最初から副反応があることを認めていれば、あるいは義務化していれば。ここまでの暴動には決してならなかっただろう。もちろんそれでも蜂起する人間が出たとしても私たちまで借り出されることは無かったはずだった。それは、首都軍が出てくるということに意味があり、そしてこの暴動そのものが目的だったということになるのか。まさかそんなことはあるまい、と私は思いながら彼が口を開くのを待つ。

 じっとキムラはぼくを見ていた。その目はどこか怯えているように見えた。次にぼくが何を語るのか。そればかりを警戒しているようで、少しだけおかしかった。
「キムラさん、ぼくは分からないんだ」
 その言葉に対する驚き方は、決して正常な反応とは言えないものだった。だが、その目だけは真っすぐにぼくを見据えていた。
「なにが、分からない」
「何で国は自分たちにとって不利益な情報をぼくたちに流したのかな?」
 拍子抜けしたのかそれともまだぼくを警戒しているのか。キムラはゆっくりと言葉を選びながらぼくの問いに答えを返した。
「この国がそういう国だから、じゃないのか?」
「そうかな? そんなにお人好しかな?」
「判断はできないな。私はあくまでも首都軍の人間で、国の目的などは分からん。だが、国民に対して利益ある情報を流すことは国の仕事の一つだと私は思う」
「じゃあなんで取り締まりなんてしているんだろうね」
「それも、私には判断が出来ないことだ」
「そう、そうなんだよね」
 ぼくは彼に初めて同意した。だが、それは称賛でも何でもなかった。あくまでもその言葉に対しての同意。彼の奥底にある心理への同意。
「どういうことだ」
「ぼくたちにはどうせ判断できない。そう思わせたいんだよ」
「なぜ」
「そっちの方が国にとって都合が良いから」
 全くキムラは理解が出来ない、という顔をしていた。
「じゃあなんだ、人々を怒らせることが目的だったというのか?」
「ぼくはそう思う」
「何のために」
「人と人を争わせるために」
「どうして」
「あなたたちを価値あるものとするために。首都軍をね」
「そんなことを国がして何のメリットがあるというんだ?」
「平和が無料だったはずのこの国に平和で金をとるために」
「ばかな」
 信じられない、という顔の奥に生まれていたのは、微かな疑念。まるでどこか心当たりでもあるかのように。
「だが、そんなことをして何になる?」
「今って、色んなところから色んな情報が流れてくる時代だよね」
「例えば?」
「ワクチンの情報、マスクの情報、それに色んなイデオロギー。色々な情報」
「それがなんだというんだ?」
「今は一瞬にして自分の信念に同意してくれる存在に会える。だけど、その反対も同じだよね?」
「確かに、それはそうだな」
「今は誰とでも仲間になれて、そして誰とでも敵になれる」
「そうすると、どうなると?」
 何を話しているんだ、というキムラの顔が少し面白い。ぼくはますます話を続ける。
「小さなコミュニティが生まれるよね。そしてそのコミュニティはそれぞれがとても強固な絆で繋がっていたとする。では、それらを傷つけようとするものが外から来たらどうなる?」
「……争い、か」
 どうやらキムラは納得してくれたようだった。

 私より半分も生きていないであろう少年に、今気圧されていることだけは分かった。ヒロイハヤトの仮説には、一つとして裏付けがない。その根拠となり得るものが無いにも関わらず、荒唐無稽なその論理を私は信じようとしていた。いや、彼が信じさせようとしていたというのが正しいのかもしれない。そこにある妙な説得力と、疑うことなく真っすぐに向けられた目。その奥に潜んでいた暗い目。私は彼に恐怖を覚えた。彼には全てが見透かされていて、その上で何を話しても一つとして隙がない。
 思い返してみる。今この世界で起きていることは何だろうか、と。それはワクチンを打つかどうかということによって生まれた争い、様々な考えの違いから生まれる人と人が面と向かわないからこそ生まれる争い。自らの考えと異なる考えを照らし合わすことなく暮らすことができる世界。そして、自らの考えと同じ考えの人物とだけ暮らすことができる世界。日常で肩と肩がぶつかっただけで起きる喧嘩が、人と人を介さないだけでいつでもどこでも出来るようになった世界。疑念が生まれる。だからこそ、苦し紛れに彼に問うた。
「だが、君の意見がもし本当だとして、果たしてそこにいったい裏付けがどこにある?」
 問うてみると、彼は初めて目を見開いた。それは今まで見せていた暗さとは違う少しばかりの光が入っているような気がした。
「それは、誰かがぼくの意見を信じるかどうか、ってことかな?」
「そうだ」
 そう、彼が立てた仮説や意見はあくまでも彼の感想に過ぎないと切り捨てることは十分にできる事だった。人によってはそうする人間も居ることだろう。だが、この仮説にはどこか妙な説得力があった。
 治安が悪化すれば、警察や軍という存在が介入する口実を作りやすくすることができる。そうすれば、政府は少なくともある程度は人々をコントロールすることが可能となる。そして、そのためには人と人とが繋がりやすい世界を創り出してしまうことはナンセンスだ。むしろ人と人とが断ち切られる、あるいは様々な考えの下で仲たがいさせあわよくば争いを起こさせることができれば理想的だ。
 だが、これまでだって様々な考えの違いなどで争いとなる火種はいくつもあったはずだ。それでも争いさえ起こらず平和な国であったのも事実だ。だが、いつでも生身でないという理由の中で誰とでも手軽に。そうした確実にくすぶりつつあった争いの理由を爆発させるのに都合が良かった。それまで様々な人の良心によって組み立てられていたこの国の治安そのものを変えてしまうような。人と人とが考えの違いだけで争いを巻き起こすような火種を。それがこのウイルスの騒動そのものだったというのか。だからこそ、ヒロイハヤトはこう答えた。
「そんなことはどうでも良いんですよ」言葉が、トーンが変わった。「多分そうだ、っていうぼくの結論なんですから」
「それで満足なのか?」
「まあね」
 ひどく達観していると思った。彼は罪そのものでさえも、大したものではないと考えているようでもあった。
「もし、君の意見が真実だとすると」彼は顔を上げた。少し色が白く感じたのは気のせいだろうか。「ウイルスは偽物であったかどうかではない、そこは重要ではないと?」
「うん、正解」
「マスクの有無やワクチンを打ったか打たないかは問題ではないと?」
「ですね」
「つまり、こうなるように誰かがシナリオを描いていた?」
「安っぽい脚本だけどね」
 ははっ、と彼は嘲るように笑ってから私を見た。
「だとしても、誰も君の言葉に耳を傾けないだろう」
「ね、ぼくもそう思います。だから期待していないんです。誰にも」
 目を見開いた。次は、私が。

 明らかに驚いているのが分かる。彼は心からウソをつけない類の男なのだ。だからこそ、彼に話す価値があった。そんなことを思う。だが、キムラが持つ魅力はそこまでだと思った。それ以上は無く、そしてこれ以上の広がりはないとも思った。そもそも彼が中心に立って何かしら活動をする事はきっとないということも感じたからだ。確かに彼の言う通りなのだ。誰もぼくの言葉に耳を傾けるはずがない。何よりもこれは裏付けのないぼくのただの仮説にしか過ぎない。テレビでやっている都市伝説の番組と、何も違いはない。
「誰も君の意見に耳を傾けないなら、なぜ私に話した?」
 キムラの問いは極めてまっとうなものだとぼくは思う。
「何でですかね? 多分、誰かに話しておきたかったんですよ」
「それがたまたま、俺だったというのか?」
「まあ、そうなりますね」
「そんな気まぐれに応じると?」
「まあ、尋問する人だし、話くらいは聴いてくれるかなって」
 そのあっけなさに、キムラはいささかあきれているようにも思えた。それもそうだ。彼は一人で大きな動きを作り出すことはできないし、そうした心臓にもなりえない。それはぼくとて同じことだ。そもそもの理由が単純すぎるのだ。人と人とのつながりを断ち切り、争いを起こすために仕向けられていた。ぼくが結論付けた単純すぎる考察、そしてぼくがワクチンプログラムの未登録者であるということ。一見すると繋がらないように見えるけれど、ぼくがワクチン接種をしなかったのもまた、シンプルだった。
「だが、それがワクチン接種を君が今も拒んでいる理由とは繋がらない。結局、何故なんだ?」
「ああ、それもシンプルな話ですよ」
「どうして?」
「ぼく、注射嫌いなんで」
 キムラの顔が一瞬理解できないという顔をしてから、何度か瞬きをした。それからようやく理解したかのような顔をして、だが唖然としているのかあっけにとられたのか。キムラの感情がそのまま言葉としてこぼれた。
「……は?」
「だから、注射嫌いなんですよ。痛いじゃないですか」
「そんなことで接種拒否したのか?」
「そうですよ」
「それで捕まって、バカバカしいと思わなかったのか?」
「でも結局人間の動機って、そういうところにあるんじゃないですかね」
 納得が行かない表情をしたまま、キムラはぼくを眺めていた。それはそうだ。今までこんな馬鹿げた理由で捕まった人間なんていないだろうから。
「ぼくはそう思いますよ」
「だとしても、君の取った行動は馬鹿げている」
「そうでしょうね。それは分かります」
「確信犯だったと? だとするなら、何故だ」
「うーん、ぼくが信じていることに殉じたかったからかな」
「殉じる?」
「そう、宗教みたいなもんですよ」
 キムラは理解が追いつかないのか、それとも言葉を失ったのか。
「結局、人は自分が正しいと思っている事だけを信じて生きていくしかないんですよ」
「……どういうことだ」
「ぼくのここまでの話は本当かもしれないし、嘘かもしれない。でも、ぼくは真実だと思っている。あのウイルスが茶番と信じている人にはそれが真実で、ウイルスにおびえている人もまた同じようにそれが真実なんですよ。つまり、その真実を信じていないと人は生きられないんです」
「そして信じたものが注射が嫌いだからという理由で、ワクチンプログラムに登録されず捕まった。まるで反乱軍と同じように」
「そういうことですね」
 瞬間的に、世界がぐるりと廻る感覚を覚えた。どうやら、徐々に効いてきたらしい。

 あきれたというよりも、言葉にならなかった。深く考察したかと思ったら、ワクチンプログラム未登録者のままだった理由は「ただ注射が嫌いだったから」。ただの子供なのか、底知れない化け物なのか。あまりに単純すぎる動機を知って、それでも彼の調書を作るほか無かった。だが、今日はもう遅いから打ち切ることにしよう。そう決めて、私は口を開いた。
「どんな理由であれ、明日からはより厳しい聴取が待っている。首都軍として反乱軍の分子とみなされる者は裁かなければならない」
 その瞬間だった。彼が笑ってこう言ったのだ。
「その心配はないですよ」

 随分おかしなことを言うもんだ、そう思った。あれだけ厳重に身体チェックをしたくせに、見抜けなかったのかと笑ってしまいそうになる。だが、それはあとででいい。その時が来たのだから。息が切れる。まるで100メートルを全力で走ったかのように。体中がしびれる。意思に反して体が動かなくなる。大きな音を立ててぼくはのけぞった。それから体を床に打ち付けた。
「おい! どういうことだ!」
 だって、ぼくはぼくの考えに殉じるのだから。天井は初めて見た。こんな黒色をしていたのか、と思った。窓から見える色は何色だろう。次第に視界が狭まってくる。天井と同じ色をした世界が次第に広がる。不思議だ。意外と苦しくない。意外と痛くない。何やら色々と駆け巡りながら、その中でキムラの声が聞こえた。
「まさか……毒!?」
 ばかめ。声を出そうとして出せなかったので、口だけで笑った。それから視界が暗くなり、ぼくの体は確実に自らの命を散らそうとしていた。呼吸が出来なくなっているはずなのに、苦しさは感じない。むしろどこかへと向けて世界がどんどんと流れていくような。これが走馬灯なのかな。何も考えることができなくなる中で見た景色は、まるで早送りのように灰色の世界から巡っていった。その最後は血が滴る景色。それから何やら遠くからぼくをなじるような怒鳴り声。

 ヒロイハヤトは取り調べ中に遅効性の毒で死んだ。なんでも山の中に生えている毒キノコを食べたのだという。首都軍として、私に課された役割はここで終わった。後から警察の関係者から聞いた話によると、ワクチンプログラムに未登録だったことが家族に発覚した。それが元となって争いとなった結果、家族を全員殺してその足で山に家族を埋めたのだという。恐らく毒キノコはその後に食べたのではないか、と。
 斜に構えていた彼の顔を思い浮かべた。その関係者の話からすれば、随分身勝手で我儘な動機だと思う。だが、私はこうも思う。そんな身勝手で我儘な彼の信じた物事にどうしても殉じる必要があったのだろう、と。それでも誰かを殺め、傷つけることは間違っている。それでは一緒にされたくなかった反乱軍と一緒ではないか。
 それからしばらくして、反乱軍がまた各所で暴動を起こしているという話をした時、ヒロイハヤトを思い出した。彼はどこかで私を嘲笑っているような気がした。「ね? 争いなんてどこでだって起きるんだよ」と。この反乱軍を止めるために、私たちが居る。抵抗をするならば彼らを悪とみなし、そしてせん滅をしなければならない。だが、その発端を作ったそれらが全て最初からそうなるようにシナリオ付けられていたとしたら。そんなことを思うと、私は最前線へと立つことに恐れを抱くようになった。
 誰を撃てば良いのか、誰を倒せば良いのか。私には分からなくなったから。果たして私が正義なのかさえ、怪しくなってしまったから。それまでは自らを正義の象徴であると信じて来たもの全てが疑わしくなってしまったのだから。
「人は自分が正しいと思っている事だけを信じて生きていくしかない」。それは私自身も同じだった。そして信じていたものが疑わしくなってしまった瞬間、私は初めて宙ぶらりんな気持ちになってしまったのだ。
「ヒロイ。私は何が正義なのかさえ、分からなくなってしまったよ」
 彼にそう問いかけようにも、荼毘に付されたはずの彼の遺灰だけが納められた場所はどこにもない。様々な遺灰と共に無縁仏の墓に放り込まれたまま、ヒロイハヤトという名前さえ忘れ去られ、消えていく。彼は自分が生きたいように生きたかっただけのただの我儘な少年だった。その一方で最期の時まで自らが信じる真実に殉じた哲学者のようでもあった。だが、何かを証明したかったわけでもなければそれを盾に誰かと結託するわけでもなかった。ただ自分がそれで幸せであればそれで良かった。だから、世界がどうなろうがワクチンを打とうが打つまいが彼にはどうでも良い。ただ、世界は確実にヒロイが言うように首都軍がのさばり始め、日常のそこら中に小さな争いが生まれるようになっている。
 そうした日常の中に忙殺されていく中で、私はいつしか彼のことを忘れていた。

 少なくともここは灰色に満たされていない、とわたしは思う。それは辺りを見渡したがゆえに得ることが出来た結論。どちらかと言えば白色に近く、もっと言葉を言い換えるなら、こじゃれたマンションのようにコンクリートを打ちっぱなしにしたような。そんな色合い。ただ、見えている景色はどこかモノトーンでおおわれている。外を眺めながら、教師の話を聞いている午後の授業のよう。それなのに、ここには日常がない。
 日常と言えば、今朝ここに連れて来られる前に見ていたテレビのワイドショーを思い出す。何やら政治家の不祥事を有名人たちがあーでもないこーでもないと騒ぎ立て、チャンネルを変えれば別の芸能人が不倫したことを騒ぎ立てていた。昨日も、一昨日も、その前もだ。そして騒ぎ立てないようにしている私たちは、決して不幸であっても幸福そうな顔をして今日も何事も無かったかのように暮らしている。裏側で知らない誰かに暴言を吐きながら。わたしはそれを知ってしまった。つまりこのウイルスは人の本性を、ただ炙りだしたに過ぎないのだ、という事を。
 扉が開く。気難しそうな顔をした男がわたしの前にどっかりと座った。名を訊ねられ、わたしはタカノチヒロと名乗った。瞬間に、その確からしさは確信へと変わる。わたしはこれから、取り調べを受けることになる。いくつかの間があって、ようやく男は口を開く。彼は、自らの名をキムラと名乗る。
「これから取り調べを始める」
「はい」
 気だるい一日が刺激的になるかな。そんなことを思った。


そういうわけですので。

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