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先生、死なないでね①

突然、高校時代の恩師から電話があった。「しおりさん?カラオケいこ!」
先生から電話をもらうことなんて今までほとんどなかった。前回会ったのは1年半前。

急な電話もそうだが、カラオケという内容にびっくりした。先生とカラオケに行った記憶もない。
「先生、げんき?大丈夫?」あ、元気?っていう聞き方はおかしいかとふと思った。先生は病気を患っていたから。遡ることウン十年前、私は京都の女子校に通っていた。そこの保健室の先生がこの「カラオケ行こ!」のご本人。

田舎の中学生だった私は何も考えずに、京都市内の「お嬢様」がたくさんいるような高校に通うことになった。時はバブル、女子高生が異常に短いスカートを履き、異常に長いルーズソックスをダボつかせていた頃だ。周囲に田んぼしかない中学校にヘルメットを被って、どろーんと長いスカートを履き、たまにシャツがはみ出ているのを注意されていたのんきな私には異世界だった。しかも、見たことのない革のバック、後に知るルイビトン、ハンティングなど通学カバンとしてみんな使っていた。

早い話、そんな高校には馴染める訳もなかった。中学校の頃はチャリで近所の駄菓子屋に寄り道することすら不良の始まり的なことを感じていた私だ。

入学して最初の席は運悪く、内部の女子(中学校から高校に上がってくるメンバー)に囲まれた。茶髪のソバージュで新しいクラスにも馴染み切っている言動に、私は馴染めなかった。そんなイモのような私に興味を持ってくれる内部性がひとりだけいて、なんとかその子を頼りに生活が始まった。

しかし結局、無理して1年間を過ごすことになった。内部生は内部生の仲間がいて、そっちで自然に集まることも多い。私はどっちつかずのポジションで外部の人とも仲良くするチャンスを逃してしまった。なので、冬になっても移動教室は一人で行くという始末。後にも先にもこんなに孤独な学校生活はなかった。

そして二年生になり、待ちに待ったクラス替え。吹奏楽部で一緒のメンバーも同じクラスになり。今年は気のあいそうな友達に囲まれてやっていけそうな気がしていた。

ところが二年生の夏やすみ前になり、毎日微熱が出て、体がどことなくだるくて保健室に通うようになった。とにかく学校には来るが、体調が悪く保健室のソファーが私の指定席だった。

その後、私は半年間、保健室登校をすることになった。熱が出たり体がだるかったりしたのは、風邪などではなかった。メンタルの不調が体の症状として出てきた。
不思議なことに、保健室には通えていた。しかし、教室には入れないという状況。

高二になって友達はできたし、文化祭の劇の練習もしていた。沖縄戦の兵士役(ハーモニカを吹いて、その後血も吹いて死ぬという大役)としても張り切っていたのに、体のコントロールが効かない。なんとか、兵士を演じ終えた頃、全て燃え尽きたように鬱になった。

でも、保健室で先生の姿を見たら安心していた。雑用も手伝ったし、おしゃべり、時々カウンセリング的なこともした。そして家に帰りたくない時は、先生の家にも泊まりに行った。先生はご主人、息子2人の4人暮らし。そこに遠慮なく仲間入りした。そして、翌日は家まで送ってくれた。

こうして高三になったある日、校舎の三階にある教室のロッカーに物を取りに行った。そして廊下のロッカーを探り終えた時、先生がポンと私の背中を押した。私は、あっと思ったが、片足が教室に入ってしまった。そして恐る恐る教室の中を見ると、新しいクラスメイトがこっちを見て、私の机を案内してくれた。物を取りにきただけなのに、そのまま私は椅子に座って授業を受けた。みんな自然で優しかった。そして廊下を見ると、先生がニヤっと笑っていた。

私はその高校を卒業し、看護師になり、留学し、結婚し、子供ができ、その節目には必ず先生に連絡していた。先生は私の全てを静かに聞いてくれた。でもその度に思った、先生の病気は会うたびに進行している。すぐに亡くなる病ではないけれど、途中命の危機もあった。

そんな先生からの電話。
「しおりさん、カラオケいこ!」
「先生、今日は夕方から東京行くから難しいの、来週絶対行く!」
「いや、今日じゃないとだめ!」
「今日じゃないと?」

一瞬考えた。もし、本当に今日会わなくて、先生が亡くなったら絶対後悔すると思った。



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