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安楽死という選択

私には1歳6ヶ月のオメガという愛犬がいる。

雌のボーダーコリー。ただただボールを追いかけるのが好き。おやつを食べるのが好き。私の注意を引くのが好き。

半年ちょっと前に痙攣を起こして入院し、死の淵から復活した強い犬。

先天性の心疾患があるとわかり、寿命は平均的に1~2年と医師に言われてから覚悟はしていたし、さらに一日一日を大事に過ごしてきた。

なるべく毎日散歩の様子をインスタに記録し、仕事を集中して片付けて遊ぶ時間を2時間毎に確保し(心臓が弱いので1回5分くらいしか遊べない。)、オメガがこっちに来てほしいとアピールしたときは、ほぼ100%抱きしめて撫で回して言葉をかけてきた。

いつ来るかわからないお別れの日を恐れずに共に過ごし、友人に「オメガが死んだらめちゃくちゃ悲しいけれど、多分後悔はない。これ以上できる事はないくらいやれてると思う。」と話すくらいに私のほとんどの時間をオメガが占めていた。

そんな日々を過ごしていた5月29日、久しぶりの激しい痙攣。深夜に病院に連れて行き、1泊入院して帰宅したものの、その2時間後に再び痙攣して病院へ。6月2日に改めて戻ってきたオメガは、元気はあるものの息切れが激しく、100mも歩けない状態になっていた。

私が住んでいるのはメキシコ。医師の説明を完璧に聞き取る力がないのがもどかしいけれど、断片的に聞き取れた説明とパートナーからの報告によると内容は次のとおり。

①絶対安静。歩くのは良いが、遊んだり走ったりしてはダメ。
②処方された薬を時間を守って確実に与えること。
③どこまで寄り添っていくか、話をしておくこと。

今回のテーマはもちろん③について。

「安楽死」スペイン語では「dormirse(眠らせる)」

犬を飼っている人がとても多いメキシコ。散歩で知り合った人から、ちょくちょく安楽死というワードが出ることがあった。日本ではあまり聞かない気がするのでメキシコやアメリカの事情について調べてみると、飼い主が安楽死を決断するのは珍しくないことがわかった。

日本では「生を全うする。何があっても最期まで寄り添う」といった考え方が割と一般的だと思うが、欧米では「痛みや苦しみから解放してあげる責任がある」といった考え方が主流のよう。例えば癌など、治る見込みのない病気が判明したときにすぐに安楽死を選択するケースも少なくない。

犬が「もっと生きたい!」と思っているか「ラクにしてほしい」と思っているかは当然誰にもわからない。もしかしたら、そういう考え自体持ち合わせていないのかもしれない。それでも、どちらを選ぶのかは医師と相談しながら飼い主が決める他無いのだ。

私たちの場合。

前に医師から長くは生きられないと聞かされたとき、状況が落ち着いてから話し合った。そして、普通に過ごせなくなったら、眠らせることを考えようと決めていた。

この「普通に過ごせなくなったら」というのは、食欲もなく散歩にも行きたがらなくて、トイレもできない。そんな状態。

今のオメガは、ある程度食欲があって散歩もしたいしトイレもできる。

でも「普通か?」と聞かれたら、私は首を横に振る。以前ほどの食欲はないし、散歩がしたくて外に出ても、曲がり角まで歩くこともできない。大好きなボール遊びも無期限で禁止されている。

血を抜く治療が必要で、それを今回の入院で数回行っているからか、歯茎が真っ白で耳も冷たい。血が十分に通っていないのが素人でもわかる。糖分で少し改善できるか?と思いリンゴを少量与えてみたが、下痢をしてしまったのでこれも取り止め。

良くなっているとは到底思えないけれど、「昨日よりは若干回復してるんじゃないか?」と半ば無理やり自分に言い聞かせている気がしなくもない。

どうする?いつまで待つ?

これは、考えたくない気もするけれどやはり避けては通れない問題。少しずつでも回復していることを信じて2日後の受診と検査をまずは待つ。

その後は……
まだ細かくは考えられないけれど、おそらく3日おきくらいに「良くなっているか、変わらないか、悪くなっているか」を見ながら判断することになりそう。良くなっていると私たち2人が思えれば一緒に頑張るし、その逆であれば、これ以上オメガに頑張らせるのは違う気もする。

少し動いただけで激しく息切れするオメガ。今までとは比べ物にならないくらい苦しそうで、「歩く分には問題ないから、いけるところまで一緒に生きよう!」とは正直思えないなぁと飼い主としての責任をずっしりと感じている。

私がひとつの命の行く末を握ることがあるなんて。
何より愛する存在を自らの決断で消すかもしれないなんて。

覚悟はしていたつもりでも、文字に打つだけで涙が出てくる。でも、そのくらい大事なんだな、オメガが。賢い犬だから、さすがに私が彼女を一番に考えていることぐらいは伝わっている気がする。

もう少しだけ、様子をみて考えよう。

追悼:沖縄のばーちゃん

オメガが生死を彷徨っているまさにそのとき、母から電話が入り、祖母が亡くなったと聞いた。まあまあしんどい環境に育った私にとって、唯一と言っていいくらいに大好きで尊敬していた人。

5月に一時帰国した友人に頼んで病院のばーちゃんに届けてもらったフラミンゴの小さなマスコットと、早く出掛けられますようにという願いを込めて贈ったメキシコの手刺繍の洋服。母が電話で泣きながら「あんたが先月あげた人形、ばーちゃん枕元にずっと置いてたってよ」と言っていた。

戦後の沖縄に嫁ぎ、同じ日本人でありながら「内地の人」とひどい扱いを受けてきたばーちゃん。中卒で地銀に入ってがむしゃらに働いたのが認められて、沖縄に日本銀行ができるときに推薦で潜り込めたから年金がこんなにあるんや!と楽しそうに笑っていた。

90歳を超えてから、死に備えてお墓の準備やら色々を進めていたから、亡くなった後の手順はスムーズだと、数か月前に母も言っていた。

命はいずれ消える。ばーちゃんのように長生きの人もいれば、生まれて半年で1~2年しか生きられないと宣告されるオメガのような存在もいる。見ようによっては、今の私は「悲しい出来事が重なったしんどい1週間」を過ごした人かもしれないけれど、それだけではないような気がなんとなくしている。

苦しいことから逃げちゃいけない。逃げていいことも沢山あるけれど、今私に起こっていることは、私が受け止めなくちゃいけない。そんな気持ちになったのは、ばーちゃんを思い出すからかな。

今の状況での最適。

私の中で、まずオメガの体調の判断基準として、普通に散歩ができるようになることを置いている。遊べないのは仕方ない。急激な運動は心拍が上昇して心臓に大きな負担をかけてしまうから。

散歩ができるようになれば、少なくとも「普通の犬の生活」ができるようになる。そしたらまだ一緒に生きられるはず。

頑張れ、オメガ。
十分頑張ってるとか、無理しないでとか言うのが普通なのかもしれないけれど、私はまだオメガと生きたいし、一緒に色々な景色が見たい。山は無理でも、海での散歩はできるかもしれない。

今回のnoteは、大好きなオメガへのメッセージと、ばーちゃんへの敬意を込めて。

まずは1週間、できればその後1ヶ月。奇跡が起きたらあと3年。そんな感じで日々を積み重ねられたらいいなと思う。

安楽死は、常に頭の中にある。それはきっと悪い選択肢や責任放棄じゃないと思う。むしろ逆。状況によっては苦しいほどの、最大の愛だということも忘れずに。


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