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薄れゆく3.11

3月11日で東日本大震災から丸11年となりました。

そこで、防災意識を高める啓発活動の一環としてMVを作ることとなり、その楽曲を作らせていただきました。

ボーカルと出演は岩手出身でタレントの福田萌さんと視覚の難病を持ちながらアーティスト活動を行う矢野康弘さんが担当し、素敵な動画に仕上げていただきました。

今日はそれに関連して、自分が生まれ育った宮城県のことについて特に結論も決めずに書き綴ろうかと思います。

いつにもまして誰の役にも立たないような内容になるかもしれませんが、お付き合いいただけたら幸いです。


津波が来ない町

私は宮城県の沿岸部にある山元町という小さな町で生まれました。

家から海まで50mと言うとよく羨ましがられたのですが、割と波が荒く遊泳禁止のためその波を求めてくるサーファーか、たまに釣りをしてるおっちゃんがいる程度であまり海に対して楽しかった思い出がありません。

家の東側には大きな松林があり、細い砂利道が海まで続いていました。

砂利道を抜けると高さ15m程度の防潮堤があり、その階段をのぼると薄黒くてお世辞にもきれいとは言えない海岸があり数メートル先に海がありました。

海岸は自分が小学生のころから年々狭くなっていきました。海が近づいてきていることに言いようのない恐怖を少年時代に感じていました。

これが「地球温暖化」というものが原因だということを知らされると何だか余計わけがわからず恐怖が増していったのを覚えています。

「地球温暖化」というものが進んだら、いつか海岸がなくなって防潮堤も超えて自分の家が海に飲み込まれてしまうのではないか、という不安を口にすると、母が「ここには絶対海なんてこないよ」と言いました。

それは亡くなった祖父が「ここの土地は昔からどんなに潮が満ちても、地震が来ても海が防潮堤を超えることはないようになってる」と言っていたからだそうで、自分も昔からこの土地で生まれ育った祖父の言葉に圧倒的な信頼を感じていたので何となくその言葉を聞くと安心している自分がいました。

そんな海への数少ない思い出と言えば、夏祭りで神輿を担いだ男性たち(その多くが町の学校の先生や町議会議員)が荒々しく海に入っていく姿や、お正月の初日の出を見ながら、町の大人たちの太鼓の演奏に合わせて海岸で商工会が振る舞ってくれた温かいお雑煮とおしるこを食べていたこと。

自分にとっての海は、楽しい遊び場というよりは、人口が少ない小さな町の貴重なコミュニティスペースやイベント会場のような場所という位置づけでした。

田舎の町の中でも自分が住んでいた地域は特に農家に囲まれた集落だったので、夜は耳を澄ますと波の音が聞こえてくる、そんな実家でした。


故郷の思い出

自分に限らずな話ですが、やはり振り返ると自分という人格形成の中で地元の環境やそこでの経験が大きな作用をもたらしているように感じています。

小さな町だったため、子どもたちが自由に集まれる広場がなく、いつも遊び場に使っていたのは近くの神社でした。

そこで、多分小さい頃は鬼ごっこやかくれんぼなどをしていた気がしますが、一番当時熱中していたのがポケモンカードでした。

どれくらいの頻度で集まっていたのかもはや覚えていませんが、とにかく友人たちを集めて神社でポケモンカードをするのが小学生時代の一番の遊びでした。

もちろん境内の土の上でやるわけにはいかないので、お賽銭箱の横で靴を脱いで神社の縁側?のところでずっと対戦をしていました。

それくらい自分たちは遊べるスペースに飢えていたことを覚えています。


2011年3月11日

そんなこんなで、中学までは地元にいたものの山元町には高校がないため自分は仙台の高校へ進学し、18歳のときに進学で東京の大学へ出ていったためどんどん地元との距離は離れていきました。

それでも年に何回かは実家へ帰り、そのたびに高校の時のまま残されている自分の部屋でダラダラと漫画を読んだりしていました。

地元にはカラオケやゲーセンなどの娯楽施設はもちろん、飲み屋も、ウィンドウショッピングをするようなお店はおろか、コンビニも自転車で15分くらいこがないとたどり着けないような場所だったので、地元の友人と遊ぶ約束でもなければ本当にやることは寝転がって漫画を読むかテレビを見るかくらい。

そしてたまーに東京の部屋が狭く実家に置いておいた、高校のときずっと愛用していたFenderUSAのストラトキャスターを弾いてみたりしていました。

そんなゆったりと、何もないけれど心地よい時間が過ごせる実家が、そして山元町がやっぱり好きでした。

そして2011年の3月11日の午後。

その日は八王子のヨドバシカメラにスマホを見に行っていました。「これがXperiaって言うのか~~」ってまじまじとサンプルを眺めていました。


そこで急に「ズン!」という揺れがあり商品棚がバラバラ揺れ始めました。

そこで冷静に客を外まで誘導する店員さんに感心しつつ、そのときはまだ「大きめの地震があったんだぁ」くらいにしか思いませんでした。

そんな感じでのんきにガラケーからTwitterを見ると「震源は宮城県沖」との情報。

え、こんなに東京が揺れたのに震源は宮城?

急いで実家に電話したときには時既に遅し。全く繋がらなくなっていました。

さらに津波という情報までネット上で飛び交い、八王子の街も騒然とした雰囲気になっていました。

僕は一旦落ち着こうと近くのステーキガストに入りました。店内もやはり騒然としていて、レジ前に行列ができていました。

その間にずっと不安な情報が流れるTwitterにどんどん心を蝕まれながら、必死で実家へ連絡し続けました。

しかし、もう電話は繋がらないと悟り、そのまま自転車で家まで帰りました。

道路は渋滞し、本当に日本全体が異常事態になっている雰囲気がどこかしこに漂っていました。

そして何よりも実家との連絡が取れない不安に押しつぶされそうでした。

そして、なんとか自宅に戻ったものの、一人では不安でしょうがなく、同じアパートに住んでいた友人の部屋に転がり込みました。

何も聞かずとも事情を察してくれた友人と一緒にテレビを見ていたのですが、そこで流された津波の映像。

ヘリコプターからの映像にアナウンサーが「現在福島県の新地町上空を飛んでおります」と言いました。新地町は県境に位置した山元町の南隣の町でした。

しかしそこの映像に映し出されていたのは、見覚えのある高い煙突のある白と青の建物が海に浸かってしまっている映像。

明らかに自分の家の西側にあったゴミ焼却施設の映像でした。

しかし、その焼却施設は海からは少なくとも1km程度は離れた場所に位置していて、それだけでこの津波の巨大さを目の当たりにした気持ちになりました。

それと同時にもう家族も友達も家も無事じゃないだろうな、ということを悟りました。

一瞬で膝の力が抜けて、ドラマの演技でしか見たことないような格好で崩れ落ちました。

多分その後泣いていたのだと思いますが、気が動転していてその時自分が何をしていたのかさっぱり覚えていません。ただ友人は黙ってそばにいてくれたのを覚えています。


家族は無事、家は流出、町は消失

その後、ようやく家族と連絡がとれました。

父も姉も仕事で出ていて、母も母方の祖母の家のある仙台にいたそうだったのですが、実家のある山元町にようやく帰ったときにはとても家に帰れるような状況ではなくなっており、山沿いにある母の友人の家に泊まらせてもらっているとのことでした。

唯一実家に残っていた車椅子の父方の祖母はちょうど叔母と従兄弟がお世話をしに来てくれていた時間帯だったようでなんとか避難ができたとのこと。

しかし、当時は日本で「津波」を正しく恐れていた人はほとんどいなかった状況です。大正生まれだった祖父でさえ「地震はくるけど津波は来ない」と言っていた、そんな場所であり時代でした。

そのため叔母も従兄弟も避難指示が出てもわりとのんきで、「炊飯ジャーの電源つけっぱなしでいいかなぁ、」なんてことを話していたそうです。

しかし、同じく大正生まれで肝っ玉の据わっている祖母は顔をしかめて「とにかく財布だけ持って山の方面へ逃げろ!」と言い、しぶしぶ避難したという話を聞きました。

この祖母の危機意識が運命の分かれ目だったと今でもずっと感じています。

やはり、自分が住んでいた海の近くの地域でさえ多くの人が津波は来ないと信じ、避難さえしない人が多かったようです。

友人の一人も、家から避難せずにそのまま亡くなってしまいました。

また、近所の人は家族を安全な山の上の役場へ避難させた後に「おむつを取りに行ってくる」と言い残し、津波に流されてしまいました。

11年前の感覚で言えば、正直こういった人たちのことを責めることは僕にはできません。

自分がもし同じ立場にいたら、祖母のように口うるさく避難を促すような人がいなかったら、自分も同じ道を辿っていた気がします。

それくらい皆地震には馴れていたけど、いや、地震に馴れていたばかりに津波が来るなんてことを想像ができなかったのだと思います。

その後も山元町は大変でした。

ニュースで取り上げられるのは宮城の石巻や気仙沼、名取の閖上、岩手の沿岸部で同じく甚大な被害が出ているはずの山元町が一切話題に上がりませんでした。

それは、山元町の役場と県との通信網が破壊されてしまい、全く町と県やメディアとの連携が取れていなかったからでした。

そこで自分はTwitterを駆使しながらなんとか山元町の情報を集めて、自分のブログに情報をまとめて公開し、さらに山元町の情報を集めようとしました。

今で言えばデマや不確定な情報もあっただろうし不用意にこのような行動をとるのもどうかという気がしなくもないですが、当時は必死で、少ない情報をかき集め、さらにブログのコメント欄にも新たな情報提供者が現れてそれを日々ブログ内で更新していきました。

一方で福島では原発が水蒸気爆発を起こし、福島にほど近い地元への影響も叫ばれ情報はどんどん混乱していったのを覚えています。

しかしようやく通信網が回復されると徐々にメディアからの報道も始まり、山元町の被害状況も見えるようになっていきました。

自分が住んでいた沿岸部の地域はほぼ壊滅状態であること、死者もほぼ津波の被害によるもので、多くが沿岸地域に住んでいた人だったこと、そして次々入ってくるお世話になった人たちの訃報。

抜け殻になったようにただただ情報が右から左へ流れていく感覚がありました。

本来であれば現地にボランティアに行って手助けでもしたらいいのかもしれない、という気持ちがありつつも、とてもテレビで映される光景にリアルで対峙できる自信がなく、無気力なまま東京にとどまっていました。

そのため、あの当時ボランティアに率先して行かれた方の気持ちには本当に敬意の念が湧いて来るのと同時に当時の自分の情けない姿が脳裏に蘇ったりします

冒頭でお話したMV企画の発起人の方も震災ボランティアに行かれていた方で、その方のお話を聞くだけでも涙が出てきます。


自分の中で薄れゆく3.11

そんな自分ですが、その当時感じていた絶望感や恐怖、死者への哀悼の念と言った生々しい感情が年々薄くなっていくことを感じています。

あんなに打ちひしがれて、あれほど多くの人との別れに泣いた日があったはずなのに、どうしてもその時の心の色というものが薄まり、それがまた悲しくもあり怖くもあります。
そのような心の寂しさを綴ったのが、冒頭に紹介したMVの楽曲「場処」でした。

どんなものでも忘れられるようにできている心という機能には本当に関心してしまいますが、同時にこれこそが防災意識がなかなか人に根付かない原因なのだなろうなぁと実感を伴いながら感じています。

だから「この町には津波はこない」というファンタジーも創造してしまうのでしょう。

災害はいつ起こるかわかりません。だからこそ、記憶が薄れ危機感が弱まってきている感覚があるときにこそ気を引き締め、備えなければならないと感じます。

この動画を通して、一人でも多くの人の防災意識を高めるきっかけができたら本当に嬉しいです。何より、自分自身にとって改めて防災意識を高めるきっかけになりました。

この災害の多い国で、みなさんと一緒に守れる日常と守れる命を大切にしていきたいと思います。


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