「事実>理論」の落とし穴
現代はエビデンス主義全盛時代。
どんなことを述べるにも、
「データは?」
と詰められる。
データは非常に大事です。
正面からは見えないこと、そもそも人の目には映らないことを可視化してくれる。
主観の中に、客観性をもたらしてくれる。
そういう意味では、なくてはならないと思います。
しかし、それが全てではない。
「データがあれば正しい」というわけではないし、「データがなければ誤っている」というわけでもない。
このことに関して、オーストラリアのエルヴィン・シュレディンガー(シュレディンガーの猫で有名な人)の逸話が面白い。
実験や調査というのは、どうしたって恣意的な部分を排除しきれない。
道具、方法、対象、時間、場所。どれか1つでも異なれば、異なる結果が出るかもしれない。
シュレディンガーの話のように、未知の要素が結果を左右することもある。
こうして得られた多様なデータをまとめ上げるのが、理論の役割だと思います。
正しいデータがえらいのではない。正しい理論がえらいのです。
エビデンス至上主義者が陥りがちな罠が、「確証バイアス」です。
これは、自分の考えに都合のいいデータばかりを集めて、「やはり自分は正しかった」と思い込んでしまうこと。
上記のとおり、データにはいろいろある。
Aについて、「Bである」というデータと「Cである」というデータが並立していることだって、ざらにあります。
そうしたとき、「Cである」というデータを無視し(もしくは探さず)、「Bである」というデータだけを用いるのは、果たして客観的といえるのか。
おかしな話に聞こえるかもしれませんが、事実は事実でも、ときとして「真実」ではないことがある。
「理論」が「事実」より正しく現実を記述していることがある。
こうした見方を忘れてしまっては、本当の客観性みたいなものにはたどりつけないのではないかと思います。
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