能動的に受け止める
この世のほとんどの物事は、受け手がどう捉えるかがすべてーーそんなふうに思うことがあります。
たとえば学校の授業。
同じ授業でも、身を乗り出すように取り組み、内容を貪るように学習する意欲の高い生徒と、
席には座っていても、心ここに在らずの生徒とでは、その意味合いはまったく異なるものになるでしょう。
犬も歩けば棒に当たる。
外に出れば何か災難に遭う、という原義で捉えるか、
外に出れば何か貴重な経験ができる、というオルタナティブな意味で捉えるか。
グラスに半分のワイン。
もう半分、と捉えるか、まだ半分、と捉えるか。
壁にぶつかったとき。
無理だと諦めるか、試練だと挑むか。
社会に絶対的なものなどありません。
相対的な世界では、結局は受け手がどう捉えるかが大事なのではないか。
小説や映画などの作品も、同様です。
絶対的な価値を持つものなどありません。
人々がそれを価値のあるものと解釈したとき、初めて価値が生まれます。
学校においては、この受け取り方をまず育むことが、創造性の育成に繋がるのではないかと考えています。
たとえば、夏目漱石の『こころ』を読むにしても、99%の高校生は「何がすごいのか」を説明できないでしょう。
(下巻の)主人公は、三角関係に陥り、親友より恋人をとって、親友が自殺してしまう。
しかし、曲がりなりにも教材研究をした身から言わせれば、この小説で読むべきポイントは「三角関係」ではない(もちろん無関係ではない)。
そうした、「すごい小説」を読むのではなく、(すごい)小説の「すごい読み方」を学ぶことが大事なのだと思います。
変な話、「すごい読み方」を身につければ、どんな話でも面白く読めるし、構成や語彙、伏線などの巧拙を判断できるようにもなります。
僕は、このように「すごい読み手」となることで、はじめて「すごい作り手」に近づくことができる、と考えています。
目より先に手が肥えることはない。
ほんそれ。
何事も、ただ受け取るだけではなく、それをいかに楽しむか、面白くするか、自分の糧とするか、そういうことを考え、能動的に掴み取っていけたらいいな、と思います。
人間万事塞翁が馬という言葉もあります。
良いことも悪いことも、必ず起きるし、起きたところでどうしようもありません。
ならせめて、受け取り方を鍛えていきませんか。
というお誘いでした。
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