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「育業」が「家庭」を分解する

現在、二度目の育休(一年半)中の高校教員(男)です。

僕は、二度の育休を通して、仕事から離れて幼い子どもと過ごす時間の尊さを感じ、できれば、それを希望する人にはもれなくこの多幸感を経験してほしいと切に願っています。

政府も、少子化問題から男性の育休取得を促進するようになって、その方向性には僕も賛同しています。

ただ。

「育業」という言葉については懐疑的です。

育業は誤解を生む

育業の元は「育児休業」。これを育休と略すか、育業と略すか。
育業が登場した背景↓

要は、「育休=休み」のイメージを払拭するという狙い。休みにくい会社の雰囲気の中でも、「育業=大切な業務」というイメージで育休取得を促進していこうということです。

僕が、この取り組みのどこに違和感を持っているか。
それは、育児を仕事と同質のものと見せかける姑息さです。

育児≠業

「業、なりわい」とは、辞書によれば「生活の手立て」。
つまり仕事のことですが、育児は完全に「生活」の範疇です。
自分の身の回りの世話をすることを仕事と捉える人がいるか。同様に、家族の世話をすることも。

これが他人の世話であれば、それは間違いなく仕事です。当然、他人の子どもを教育することも。

育児という生活のために仕事を休み、社会福祉制度の世話になる。
これが育休本来の在り方ではないのか。
育児という"別の仕事"のために仕事を休むわけではない。

……細かいことのようですが、こうした言葉の歪みは着実に人々に影響を及ぼします。
こうした誤解の中で、「子持ち様」というワードが孕む悪意も制御不能になっていく、そんな気がしています。

生活を仕事と同質と捉えようとする価値観

近年では、家事に対価、つまり「賃金」を求める人もいると聞きます。
家事という「労働」をしている「時間」に金銭的価値を付与し、時給換算しているわけです。

こうした考え方は、すべてのものを均質化し、計算できるものとする考え方です。
わかりやすくいえば、なんでもお金で売買できるという思想。

時給という考え方がまさにこれです。
誰が、いつ、どんな状況で、どのように働いても、1時間◯◯円。
これは時間の質の違いを無視することで成り立つ考え方です。

時間の質についての考えは、以前触れていますので、よければご覧にください↓

ともかく、簡潔に言えば、
家庭の時間は明らかに生活の範疇であり、それを均質化(数値化)し、計算可能にしてしまうということは、
「家庭」が損得勘定に侵食される
ということです。

仕事であれば、そこに損得勘定が働くのはしごく真っ当です。
しかし、それが家庭にまで及んだとき。
金銭以外で語れる幸福は、もう虫の息も同然です。

子どもは社会のもの

「子どもは社会にとって必要だ。子どもを産み育ててくれる人は、社会の役に立つことをしているのだ。だから、育児は『尊い仕事』だ」

ここには視点のトリックがある。

確かに、子どもは最終的には社会に利するようになります。しかし、それはあくまで結果の話であり、子どもたちはそのために生まれてくるのではありません。
育児を「尊い仕事」とするのは、その利益をすでに得た「未来の視点」によって可能となります。

ある学者が、自分の興味関心に任せて一心不乱にしていた研究が、何かの拍子に社会の役に立ったとして、その研究をしていた学者が「仕事」をしていたといえるか。
それは、役に立った事実を見た人が、遡って「いい仕事をした」と感想を述べるのであって、当人が「仕事」をしていたことにはならない。

多くの親は、子どもを自分の利益のために子どもを産み育てるわけではありません。
もちろん、社会のためなんて考えもしません。
そこには、本来的に損得勘定が介入する余地はありません。少なくとも、僕はそう信じています。
社会に望まれずとも、それは実現するのです。

とはいえ、社会の支援なくして育児は成り立たない。
家庭が社会に接続されていることが、格差を減らし、より多くの子どもたちが幸福になるためには非常に大切です。

このように考えると、育休はwin-winです。
社会は、子を産んだ市民の幸福と、社会全体にいずれもたらされる「利益」のために、親を一旦労働の網目から切り離し、支援する。
親は、大変な労働から離れ、社会の支援を受けながら家族と「交換不可能な時間」を過ごす。

ここに、育児と業務を密接に結びつける「育業」のような概念が入ることで、話がややこしくなるのです。
ここの、社会と接続されたうえでの、労働からの「切り離し」がとても重要だと僕は思います。

誤解が生む弊害

誤解=育児を仕事と捉えていること(意識的か無意識的かは関係なく)
として、話を進めます。

①家庭に損得勘定が入り込む
これが1番きつい気がします。
「この子を大人にするのに◯◯万円かかる。この習い事をさせれば医者になれる可能性が上がるから、将来◯◯万円くらい返ってくる可能性が◯◯%上がって……」
子どもを見る目に¥マークが……。

②親への非難
仕事というからには、しっかりやらないと非難の対象になります。
遊んでいたり休んでいたりする親も、非難の対象になる。
それが子どもの生命にかかわるようなことならまだしも、そうでない場合にも、非難したくなる心理。
仕事をサボっている人を見て抱く義憤にそっくりです。

③子持ち様
親側の心理も変化します。
「こちらは大変な思いをして子どもを育ててやってるんだ。もっと優遇されてもいいのではないか」
そういった心理が日常の言動に滲み出るようになると、当然それ以外の人は敏感に察知し、ヘイトが高まります。
今世間で問題になっている「子持ち様」という言葉の背景に、少なからず関わっているのでは。

育休のすすめ

上で紹介した記事のとおり、僕は全力で育休を推しています。

ただし、それは
「しっかり子育てしましょうね」
という感覚とはほど遠い。

「自分と家族の、交換不可能な時間や空間を慈しんでいきましょう」

……というと固いですが、
要は


「そんな頑張んなくてもいいんじゃない」
「他人に頑張りを強要しなくてもいいんじゃない」


に近いです。

育児休業はあくまで休業です。
休みの日に家で何をしていようが、それは家庭内の話。
DVやネグレクトといった問題に発展しない限り、世間がとやかく言うことではない。
夫が家事をしない、育児をしない。
それもあくまで家庭の問題で、資本主義の価値観を持ち込むべきではない、と僕は考えます。

一方で、家庭は常に社会に接続されていなければならない。
家庭はそれだけでは存立しない。社会の中にあって初めて成り立つ。
大事なのは、
仕事から切り離されているという感覚を親がしっかり持ち、
それを社会が容認しているということです。

ずいぶん子育て世帯に都合のいい話に思われるかもしれませんが、結局はそれが社会のためになるのだから、あとは国の舵取りの問題になると思います。

育休取得の壁は、経済的問題と心理的問題。
まず、経済的には休業しても収入が減らないラインまで手当を増やす。
そのうえで、社員が育休をとることに会社が積極的になるような仕組みを作る。
それを政府に実現してほしい。

政府は、国の長期的な利益のために、どんどん子どもを増やすべき。
子どもを増やすには、育休制度の充実や教育費無償化などの政策を迅速に実行するべき。
育休を普及させるためには、経済的障壁と心理的障壁を取り除くべき。
理屈で考えればこれほど簡単なのに、悲しいかな、この国ではそれが難しい。

まとめ

僕が言いたいのは、

・育休はあくまで休業、仕事の意識は捨てた方がいい
・仕事を休むことへの経済的、心理的障壁を取り除く努力を、国がするべき

ということです。

もし、育休を「尊い仕事」と呼び続けたら、いつか育休手当が育業の給料という認識になるかもしれません。……ならないか。

それでも、たとえば車で旅行に行くとき。

「私は行きに1時間運転した。だから、2000円を生活費から使わせてもらうわ」
「待ってくれ。その1時間、僕はずっと子どもの面倒を見ていたんだ。だから、前の取り決め通り僕は2500円使わせてもらう」
「何言ってるの。あなたはずっとスマホを見ていただけじゃない。むしろ、無賃乗車なんだから2000円生活費に入れなさい」
「ママ、私は1時間も大人しく車に乗っていたんだから、1000円お小遣いちょうだい」
「あなたは一度もわがままを言わなかったから、今回5000円投資するわ。その代わり、将来の収入に応じて4000円分を利子付きで返還してね」

……なんて未来が……?

とにかく、
・時間を均質なものとする考え方
・仕事意識にともなう損得勘定
これらが「家庭」という交換不可能の特殊な場に入り込むと、「家庭」が分解されてしまうのではないか、ということを危惧しているのです。

政府は、「育業」という言葉で休業の罪悪感を減らそうなどという姑息なやり方でなく、
もっと根本的な問題と正面から戦うべきではないでしょうか。


ちなみに。

「姑息」というのは「卑怯」ではなく「その場しのぎ」という意味です。
間違えやすい語句なのでお気をつけて。
(とってつけたような国語科感)

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