見出し画像

スムーズを疑え!

福島第一原発事故からしばらくして、政府の「安全宣言」によって「原発再稼働」が進められることになった前後、あちこちで「賛成」「反対」の議論が沸き起こっていた。政財界、学識者から市民グループまで真剣に議論していた、ように見えていた。
が、不思議なのは、その大半が、「賛成派」の集まり、もしくは「反対派」の集まり、に分かれていて、賛成・反対の両方が同じテーブルで議論している場がほとんどなかったこと。
そのため、どちらの議論もスムーズに答えが出た。というよりも、最初から結論は分かって議論(みたいなこと)をしていた。
「未曾有」という言葉をあちこちに見かけるほどの大災害であり大事故だったにもかかわらず、進むべき方向に関して結論ありきの集会が真剣に行われていた。同じ考えの者たちが「そうだ、そうだ」と言い合って心満たされていた。

本来、議論とはさまざまな意見が同じ土俵で交わされること。似た考えの中にもニュアンスの違う意見もあれば、自分とは異なる考えの中にもスタンスは似ているという意見だって見かける。むしろ、違いを知ることによって自分の意見を見直すことができるというメリットが他人と議論するなかには含まれている。そうして何らかの変化が自分の中に生じていく。それが議論の本質。
最初から合意されている結論に向けた議論など議論とは呼ばない。議論に参加する前と後でわずかでも自分の中に変化が生まれるのは自分に対する最低限の民主主義なのではないかと考えるのだが、会議場に「一致団結」「絶対勝利」などという幕があると、もはや議題など無関係な単なる闘争だとしか思えない。
異なる意見の人を参加させないのだから同じ意見の者同士が了解し合うだけで変化が生まれない行動は儀式だ。
異なるものを排除して仲間内で心地よくなることが好きな国民性と、意識的に異なるものに触れてさらなる理解や自身の変化を獲得していくことが好きな国民性とがあるのかもしれない。
せっかくの自分の考えを壊されやしないか、と冷や冷やしながら攻撃的になってみたり虚勢を張ることは、貴重な経験であるはずの決定のためのプロセスを放棄している気がして仕方がない。
スポーツ選手なら分かるかもしれないが、大けがでなければ、治りやすい傷はむしろその部分を強くすることだってある。異物であるワクチンを先回りして体内に入れるのも適応力を高めておくためだ。
異なるものが存在しないスムーズな進め方が物事の決定機会にとって、ほんとうにいいことなのか?
無事にやり過ごすために、無視したり、やり残していることがあるのではないか?
もしかすると、誰にも反対されないことへの慣れから、独善的になり始めていないか?
反対側があるという意識を持てなくなってバランスの悪さに気づかなくなっているのではないか?
そんなふうに自問することで偏った自分をつくらないように注意しなければ。それが、あの頃の二分された不毛な議論を見ていて感じたことだった。
 
あれから時が経ったけれど、スムーズ好きは相変わらず同じ場所で見受けられる。異なる考えをおきざりにする古い体質を変えられないでいる。いや、気づいていない。傷ついてもいない。
職人さんが使う「砥石」や「やすり」は、荒目から細目まで用途によって分かれる。荒く傷をつける、細かく傷をつける、そのプロセスを「磨き」と呼ぶ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?