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「イソップ童話」の犬の物語を読み返して知らされたこと。

イソップ童話の犬の話は多くの人が知っている。
知っているであろう。
知っているんじゃないかな。
念のため、ざっくりと、こんな話。
橋の上から川面を見下ろすと、おいしそうな骨をくわえた犬が見えた。奪い取ってやろうと吠えた途端、自分がくわえていた骨が落ちていった……。
この話、おそらく「だから欲張ってはいけないよ」と教えられた人が大半だろう。 
イソップに尋ねたわけじゃないからほんとうのところは分からないけれど、「欲張ってはいけない」という話だとするならば、一度読めば「はいはい、分かりました」となる。子どもの物語だからそんなものでいいってことなのだろうか? シンプルな物語ほど深い意味を隠してある気がするのだけれど。

いい歳の大人になって、まるでプレゼントでも探すかのようなふりをして本屋の児童書コーナーで立ち読みをしていたある日、たまたま「イソップ童話」を手にした。「犬の話。ああ、懐かしいな」軽い気分で読み始めたとき、衝撃的なメッセージが与えられた。
「人は求めているものをすでに手に入れているのに、そのことに気がついていない」。
私自身が「すでに手にしているもの」があるのに自分では気がついていないから、いつも求めている。もっともっと欲しくなる。そんな私の姿を犬に例えて見せてくれている。そう読めた。
「欲張るな」とはまったく違うメッセージだったんじゃないか!?
恐る恐る、もう一度、ゆっくりと読み直した。
すると、こんなことも受け取ることができた。
人は、自分を自分自身で直接見ることができないので、何かに映し出して自分を発見していくしかない。その対象となるものを象徴的に「川面」として物語では描いたのではないか。現実には、自分が映し出されるのは、他人の場合もあるし、あるときは山や海などの自然かもしれないし、またあるときは動物だったりする。要は、自分の目の前にある存在は自己への気付きを与えてくれるものだ。そう伝えているんじゃないか、この物語は。
児童書コーナーでいいのか!? 店員さんに知らせたい衝動をこらえた。
「すでに持っているにもかかわらず持っていないと勘違いして求め続けているものが、ある対象に出会って映し出された。けれども、映し出されている自分のことが認識できず、すでに持っているものまで失くしていませんか?」と教えてくれる物語ですよ、と説明したところで店員さんも困ってしまうだろう。
小学生のときは、犬を「犬」として読んでいた。大人になって、犬は「私」だと読んだ。そう思った瞬間に、物語が自分事になった。自分が登場してくる物語だから私が読む意味が出てきた。私だけのオリジナルの読み方が生まれた。

そんなふうに読み解いた日から、いろんな場面で「イソップの犬」に例えられることが目に入ってきた。
例えば、親兄弟との仲が悪くて縁を切りたいと思っていた男性は、震災で親族を亡くして、生き残った自分の役割は、たくさんの人たちに「生きている間に家族と思う存分、楽しいこともけんかもやっておいたほうがいいよ」と伝え続けることだと思えてきたと語っていた。
失ってしまうまで大事なものに気がつかずにいたことへの後悔、そして、こんな自分の後悔物語を他人の役に立てたいという切実な願い。この人にとってのイソップの犬は、震災だったのだな。
 
日が経つにつれて、「人はいつも自分以外のところに答えを探し求めているのだろうな」とも思うようになった。あの犬は、やはり人間の姿だったのだ。
自分の中に答えはあるのだ。
求めるものはすでに手にしているのだ。
外に正解を求めようとするほど自分を見失うのだ。
誰かが自分を苦しめるのではなく自分自身がそう仕向けてしまうのだ。
そうした自覚の促しが私にとっての「イソップの犬」の存在意義だと言える。
人は自分だけでは気づかないことのほうが多い。何かに映し出す必要があるのだとすれば、他人や自分を取り巻く環境はすべて自分にとっての「川面」だ。
それなのに、人や環境に向かって吠えている姿は、そこに映し出される自分を嫌悪して叫んでいるだけなのかもしれない。自分に向き合えない弱さを他人への攻撃にすりかえているのかもしれない。
子どものための物語などと考えていると、自分への貴重なメッセージを川の中へボトンと落としてしまうワン!

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