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木に、アートに、問いかける。

八木耕介さんのメッセージは、テーマも切り口も視野の広さも秀逸で、多くのヒントを頂いている。
ネガティヴケイパビリティへの旅|八木耕介|note にも私の記憶が反応した。
10年ほど前の5月。京都・嵐山の大河内山荘庭園の一角に写経ができる庵があった。今もあるはず。静かで、見事な襖絵も心地よさを倍加させてくれた。
写経するよりも風に吹かれたくなった。広い縁側に座り、穏やかな日差しを浴びて足をぶらつかせていた。
と、目の前5メートルほど先に、人の背丈よりも少し高い木がほぼ等間隔に並んでいる。率直に言えば「人工的」なニオイがした。写経の場にこんな寸法を測ったような植え方をしたら味気ないだろうに、と生意気なことを思っていた。
私の隣にも、その隣にも、私と同じように新緑の風を受けて座っている人がいる。
木は、縁側に座っている私たちそれぞれのちょうど真ん前に立っている。
そこで気づいた。
あ! 座る人たちが向き合えるように木の間隔は調整されているのかもしれない! 
何か大発見でもしたかのように両目が大開きになった。これが「意味」だとも思った。
そういえば、前の日に参拝したお寺では、庭園に石が配置され、白砂には波のような模様が描かれていたけれど、それにも意味があると言っていた。
意味は「答え」ではない。この場合、庭園を眺めながら自分自身の何かに気づくための“装置”として石や白砂の模様が用意されている。庭園の意味とはそういうこと。庭園を眺めることで何らかの反応が起こる人には起こるだけで、装置そのものには何の策略もない。「活かしたいなら活かしたらよい」という態度は、主体性を育む。
ともあれ、縁側に座る私に「どうぞ、お好きにお使いください」と言ってくれている(と私が解釈した)木に向かって、あれこれと質問してみた。
「そこに立ってるのは私の思ったような理由からですか?」
「人間って、どう見えます?」
「動けない良さって何ですか?」
「そういえば、私たちはあなたたちのことを地面の上の部分しか見ていないけど、地面の下があるんですもんね? 申し訳ないですね、自分たちが地面の上の生き物だからって、上っ面だけでキレイとか枯れてるとか言って。人間って見えるところしか見ないんです」
そんなことを話しかけた。
もちろん、何も聞こえない。けれど、木の返事を主体的に捉えた(好きに使わせてもらった)。
「まあ、あんたがそう思うなら、それが真実だよ。真実なんて、それぞれだもの」
「彩り豊かな生き物だな。生老病死、喜怒哀楽、苦にもいろんな種類を持ってる。全部彩り。嫌だと言いながらそれも生きてる証。どうせ生きるなら、彩りは多いほうがいい」
「じっとしてるから、会おうと思えばここへ来たらいい。そういう役目のものも世の中にはある」
「見えないところを見ようとしないと見れない。見えるところだって見ようとしなければ見えてはいない」
木と対話する。自分の鏡となってくれるものから声を聴く。
それがそのままアートと向かい合う姿となった。
寺社、仏像、お天道様、動物、自然の風景、赤ちゃん、亡くなった人、何も伝えてくれない相手……すべて自分から問いかけ、自分が映され、自分で聴きとっていく対象。

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