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【教育回】教育の目的と、多様性の尊重について

Voicyで苫野一徳先生(教育哲学者)の放送を聞いて思い出したことを
徒然なるままに書いてみます。


◾️教育の目的とは


教育って何のためにあるのか、考えたことはありますか。

私は、最初に入学した大学で幼稚園・小学校の教員免許状を取得したので、
その授業内でこういったことを考えることがありました。

なんのために教育が存在するのか。
答えは十人十色でいいと思いますが、ここで教育基本法を引用してみます。



「第1条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし・・・」
からスタートしています。

私はこれを初めて知った時、
「私は完成された人格を持っていないから教師に向いていないのでは」
と思い、落ち込みました。

ところで、「人格」と似たような言葉として「性格」がありますよね。
人格と性格の違いって、みなさんご存知でしょうか。

ググってみると、いろいろな解釈がありそうですが、
私の中で腹落ちした解釈を紹介します。

性格=character。「性」という字から分かるように、簡単に変えられるものではない、その人個人のコアに近いもの。
人格=personality。ラテン語「persona(ペルソナ:仮面)」に由来

これを知って私はとても安心しました。
なぜなら
「人格=仮面なら、
完成された人格とは、適切な場面で適切な仮面を被れることをいうのかもしれない。仮面で良いんだ!性格を変える必要はないんだ!それなら私にもできる!」
と思えたからです。

◾️「人格の完成」と、多様性の尊重との関連について


苫野先生は放送内で、
「民主主義におけるルールというのは、多様性を否定するものではなく、むしろ公共の利益の最大化のために必要なもの」
といったニュアンスの話をされており、全くその通りだと思いました。

自由の相互承認、という概念とも重なる部分があると思いますが、
「私はこういう人格。あなたはこういう人格。それはお互いを傷つけるものではない。だから自由でOK。」
という考え方が成立すると思います。

自分以外の考え方を認めたくない。
異質なものは排除したい。
誰しも少なからず、こういった考え方は持っているかも知れない。
でも、心の中でそういうことを思う「性格」だったとしても
「あなたはそういう考えなんですね。」と、
その存在自体は受け入れてあげることができれば、
「性格いい人」じゃないかもしれないけど「人格のある人」にはなれる。
そういう状態を、学校教育は目指しているんじゃないかな。
(概念的にはね。現場はそうなっていないと思う。)

そして、完成された人格というのは
学校教育を卒業した時点で卒業証書と共に得られるものではない。
生涯教育と叫ばれる昨今、それこそ死ぬまでずっと
人格の完成を追求して人生を豊かにしていくことでしょう。

なんか、幸福追求権と似てますね。
憲法で認められているこの権利は
「幸福になる権利」ではなく、「幸福を追求する権利」。

教育基本法も、「人格の完成を目指し」とある。
完成させるとは言っていないのである。

Voicyを聴きながら
こんなことを思い出したので
備忘録的に記事にしてみました。




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