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丸山真男の本を読んで 無形の社会的圧力について思うこと

丸山真男の「日本の思想」に興味深い記述がありました。

丸山は、明治憲法下での國體(こくたい)について「非宗教的宗教」と位置づけ大正デモクラシーの時代においてもおそるべき呪縛力をもっていた、とします。

かつて東大で教鞭をとっていたE・レーデラーが在日中に見聞してショックを受けたこととして、大正12年に起きた難波大助の摂津宮狙撃事件において、犯人の親族や警備当局が責任を取るだけでなく、難波大助が卒業した小学校の校長・担任も責任をとって辞職しました。
丸山はこれを「このような范としない果てしない責任の負い方、それをむしろ当然とする無形の社会的圧力」とします。
国民の無限責任の根源にある非宗教的宗教的の帰結が「無形の社会的圧力」とするのです。

國體については横に置いておくことにして、「無形の社会的圧力」は今の令和の時代においても日本社会に底流にある「非宗教的宗教」ではないでしょうか。ここ2年間に跳梁跋扈している自粛ポリスが典型的であり、普段は気にしない空間に漂う粒子が突如として大きな塊に凝固し「正義」として襲ってくるような感じです。

この「無形の社会的圧力」は田舎の方が際立っており、田舎に電話している時に、罹患すると引っ越さないといけないという冗談のようなことが本気で語られていました。物理的な人口密度は低いものの、感情的人口密度は高い田舎では、匿名性は期待できず、むしろ隣人のすべてを暴き出さないと自分が暴き出されてしまうという恐怖感が「無形の社会的圧力」を増派させることは生まれ育った者として感覚的には分かる故に、異常な世界と唾棄する気にはなれません。

似たようなことはハンナ・アレントが「責任と判断」で述べています。
戦後のドイツにおいては、「個人としてはまったく無実である人々が、他者と世界一般に対して、自分たちに大きな罪があると感じていることを認める」と述べます。
戦争責任と自粛ポリスを並列に扱うのは無理があるとは思いますが、両者に共通するのは、アレントが言うところの「集団責任」の概念です。アレントは集団責任について、法的な規準と道徳的な規準の観点から論述しますが、つまるところ「この種の責任というのは、つねに政治的なものです」とします。

集団責任から逃れるためには共同体から離脱する他に方法はないのですが、離脱したとしても、それは他の共同体に帰属することになり、集団責任という空気感がなくならない限り、逃れることはできないのです。

アレントが書き起こした時のドイツがいまどうなっているか私には分かりませんが、日本においては丸山が解き明かした無限責任は今も私たちに絡みついている非宗教的宗教といってもいいでしょう。

これは社会全般というつかみ所がない共同体にとどまらず、学校・会社・地域社会、というものに眼を凝らししてみると、その范とした粒子が見えてきます。

明治時代に海外から哲学・宗教・学問が流入したとき、相互に原理的に矛盾するものまで、「無限抱擁」してこれを「平和共存」させる思想的「寛容」の伝統、と丸山は述べますが、こうした「雑居性」が最近失われつつあるように思います。
歴史的に私たちをとりまく空気のような同調性は、島国日本の伝統でもあったと思いますが、最近は相対的に雑居性より同調性の面が強まっており、その結果として無意識のうちに異物を排除しようという気持ちが具体的な所作に表われ、時に陰湿な、時に理解不可能な事件につながっているのでしょう。

これに対する解を持ち得ていませんが、自己防衛としては「同調性」に対する免疫力を高める、鈍感力を高めること、一方で自分自身が「同調圧力者」にならないためには、寛容を意識し続けることが対処療法的ではあるものの、方策の1つだと思います。

「日本の思想 丸山真男 岩波新書 電子書籍版」
「責任と判断 ハンナ・アレント 中山元訳 ちくま学芸文庫」

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